はじめに

 

 早稲田大学水稲文化研究所では、ウダヤナ大学の協力を得て、バリ島の水田農耕と村落文化の研究を進めてきた。20063月には講座水稲文化研究Uとして『バリ島の水稲文化と儀礼−カランガスム県バサンアラス村を中心として−』を刊行した。この書に掲載されたイ・グデ・ピタナ教授の「見捨てられた財産:バリ島の棚田と灌漑組織の現状」は、現代におけるバリ島の村落共同体とその文化が危機に瀕している状況を如実に示したものであった。今回の『講座水稲文化研究W バリ島研究の新たな展開』は、ピタナ教授の指摘をうけて、日本人が行ったバリ島研究を見直し、新たな展望を開こうとしたものである。

 バリ島は1920年代以降、「神々の島」、「最後の楽園」というイメージが付与され、実態的な研究もこれを裏切ることなく展開されて今日に及んでいる。しかし、イメージの前提となったバリ島の農村には、第三次産業への傾斜による過疎化、灌漑組織スバックの崩壊、生産基盤であった棚田の消滅など様々な危機が迫っている。研究の新たな展開とは、このような危機を背景にした現地の状況を調査し、その打開に向けて一歩を踏み出そうとする試みのことである。三浦恵子氏の論文は、バリ島の村落の現状を民俗学的に明らかにした上で、棚田景観保全のモデルとして世界遺産への登録が検討されているタバナン県ジャテルイ村の村落的な状況をまとめたものである。今後のユネスコの作業においても基礎資料となることであろう。河合徳枝氏は、「神々の島」の発祥の地といっても過言ではない伝統的な儀礼を保全する村をレポートし、「報酬脳主導による持続型社会モデル」による伝統的なバリ村落の持続性を明らかにし、成文化された慣習法典“アウィグ・アウィグ”の全貌を示したものである。高度な村落文化が理解されるであろう。細谷葵氏は、やはり消滅の危機にあるローカルライスの米倉を調査し、現況の分析を行ったものである。特徴ある保存の方法が明らかにできた意義は大きいと考えている。さらに菊地有希子氏はローカル・ライスそのものの分析を行っている。以上のように、バリ島は世界に比類のない豊かな水田農耕文化を現在でも保っているが、それ故に、観光的価値が高まり、第三次産業への傾斜が著しく、農村は危機に瀕しているのである。

 このような農村文化の危機を打開する試みは、近年ようやく始まったものであるが、危機認識自体はすでに太平洋戦争の頃から明らかにされており、阿部知二の『火の島』は総体的なバリ文化を体感した感受性に富む文章で、危機的な状況を訴えている。1980年にクリフォード・ギアツの『ヌガラ』が刊行されて、バリ島を発信源とするカルチャー・ショックが日本を襲ったが、この頃から現地では日本人による実践的なバリ島研究が進み、90年代以降はその収穫期となった。今後、バリ島の人びととの協業により世界的に見ても貴重なこの島の水田農耕文化を守り、後世に伝える努力をしていかなければならない。

 おわりに、ウダヤナ大学の副学長ウィラワン教授をはじめ、この研究にご協力いただいた方々に改めて御礼申し上げたい。            


2008年9月 水稲文化研究所代表 海老澤衷