NO.233(2025.12.15)
 第30回の「棚田サミット」は別府市で開催された。写真は2025年11月2日の内成(うちなり)棚田見学会で、展望台に向かう行列が映っている。先頭は右端の六地蔵塔にさしかかったところである(画面をクリックすれば拡大)。阿蘇の巨大カルデラがある九州は日本の中でも火山の発達した地域である。その恩恵を受けた別府市は巨大な温泉リゾートとして現代のインバウンドを追い風とし、新たなブームを迎えている。その一つが温泉地の周辺にある棚田である。
 その中でも内成の棚田はスケールがきわめて大きいが、この地の農業は高地にありながら既にパイプ給水を受け、民家の水道は個別の生活水確保の家が相当数存在する。棚田に対する特別な政策を必要とするが、今日まで持ちこたえたため、別府観光に新たなフィールドを提供することができた。時宜を得て別府国際コンベンションセンターと杉乃井ホテルで行われた棚田の現況を検討する分科会および交流会は盛大なものとなった。
 別府市には内成の他にも農水省に選定された棚田地帯が4カ所存在する。このうち堂面(どうめん)と天間(あまま)はそれぞれの地域的な個性が反映されているものであった。堂面の棚田は宅地造成と棚田保存のせめぎ合いがあり、プラス面として住民による大規模な農園造成による活性化が図られている。別府湾を眺望できるこの地には九州大学などの医療施設もあるのでライフプランに含める人も出てくる可能性がある。畔に不動産会社の看板があったことも各地の棚田を見てきた筆者にとっては印象的であった。
 天間は以上とはまた違って中世・近世から近代への村落の状況をよく残しており、石造物のそれぞれに解説板(英文も入れる)を設置すると、近代社会と国民国家形成との関係がよくわかる。これもインバウンドにとって必要なことである。現代社会ではどの国からやってきた人でも近・現代に同じような経験を背負っているはずであり、山間にありながら交通の便がいいので他の棚田とともに有益な見学地となるであろう。
 


NO.232(2025.10.15)
 京都知恩院の大方丈・小方丈。2025年10月6日撮影。知恩院の伽藍の中では比較的小さな建物だが、入母屋造りで、檜皮葺きの屋根が雅である。また、その前面には美しい池を配した方丈庭園が広がっている。寛永18年(1641)に将軍の宿所として建立された。
 中世において「方丈」は禅宗寺院の住持の居所として発達する。『蔭凉軒日録』では、天龍寺・南禅寺・建仁寺・東福寺などで将軍が「方丈御成」をする場として記述されている。この時期には単なる寺院の一堂宇を脱して将軍の逗留する場となり、徳川政権下に入って将軍の宿泊施設の目的で「方丈」が造立されるに至ったといえよう。
 徳川家康が浄土宗を信仰し、知恩院を京都における菩提所と定めたため、開祖法然が入寂したこの地に大伽藍が建立されることとなった。御影堂や三門(西に面した大門)は国宝に指定されている。知恩院は門跡寺院としての立地と格式を備え、禅宗寺院の意匠も取り入れて造営された点に徳川幕府の威信が感じられるが、同時に室町文化を背景としている点が興味深い。


 


NO.231(2025.8.15)
 豊後大野市の普光寺磨崖仏。1985年10月27日撮影。今から40年ほど前のことであり、大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館に勤務していた頃、フィルムカメラに納めた画像である。豊後国大野莊の故地であり、平安時代から鎌倉時代初期にかけては地域の大豪族大野泰基が支配していた。その頃に造られたものである可能性が高い。
 大野氏は当初平家方に与していたと思われるが、源頼範に率いられた東国の軍団が九州に上陸した頃には、鎌倉幕府方となり、九州から平家を追い落とすことに功績があった。
 京下りの官人で、源頼朝の側近であった中原親能の猶子となった相模国大友郷出身の能直は西国に下り、大野泰基を滅ぼした。その子孫は大友氏を名乗ってやがて豊後全体を統括することとなった。


 


NO.230(2025.6.15)
 白鳳仏として知られる金銅釈迦如来像を所蔵する深大寺(東京都調布市)の旧本坊庫裡。2025年6月2日撮影。本堂の脇に独立して建てられている。禅宗の頂点にある臨済宗寺院の場合は、巨大な庫裡が美しい装飾的な壁面を見せて建てられていることがあり、客殿と対を成している場合がある。
 天台宗寺院である深大寺の庫裡は茅葺きの大屋根に繊細な柱建てと白壁によって素朴な味わいのある構造となっている。内部を観察すると、軸部では太い木材が使用されているが、それが外面に現れないように工夫され、上部の小屋組部分は床面を設けることは考えず、細い柱を多用して巨大な屋根を支える構造となっている。作業用の平土間も広く残されているが、大釜を外部に展示し、薪を積み上げて視覚的にもその歴史的な役割が理解されるように工夫されている(左クリックすれば大画面になる)。現代においても一般的な会議等はここで行われるのであろう。
 今回、深大寺では巨大な良源像の解体修理が行われ、その完成を祝っての御開帳となった。解体修理のプロセスを分かりやすく解説したパンフレットが配られ、鎌倉幕府の命令によって製作されたものであろうとの結論が示されている。
 良源は慈恵大師、元三大師と呼ばれるが、さらに「角大師」の名で知られる異形の護符が広く流布した。顕密仏教が大衆に流布する上で良源の果たした役割はまことに大きい。

 


NO.229(2025.4.15)
2025年3月21日、長崎県佐世保市にある早稲田大学名誉教授瀬野精一郎氏の墓に詣でる。写真は教え子の宮﨑肇さん、貫井裕恵さん。それに『佐世保市史』を瀬野氏とともに執筆され、納骨にも立ち会われた佐世保市居住の中島眞澄氏。写真撮影はやはり教え子の高橋傑氏。
 この地に立つと瀬野氏の生家跡も見渡すことができる。私自身、瀬野氏とは15年ほど職場を共にさせていただいた。瀬野氏は2002年に定年退職され、2022年に逝去されたが、2025年の春彼岸にようやく墓参がかなった。
 瀬野氏は、この地に生まれて九州大学を卒業し、師であった竹内理三先生のもとで九州の古文書採訪を進め、竹内先生が東京大学史料編纂所に転任されると、九州大学助手から史料編纂所に勤務されることとなった。竹内先生は史料編所長をされた後、早稲田大学に移られ、文化勲章を受章する業績となった『鎌倉遺文』(全46巻)の編纂に着手され、1977年定年退職されて畢生の事業となった『鎌倉遺文』の編纂に傾注された。
 後任として早稲田大学助教授となった瀬野氏は、竹内先生がまだお元気であった1993年に鎌倉遺文研究会を発足させ、代表として例会を開催するとともに1998年には学術雑誌『鎌倉遺文研究』を発刊されることとなったのである。 2000年には海老澤が鎌倉遺文研究会代表を引き継ぎ、2019年に海老澤が定年退職の後には下村周太郎氏がこの研究会の代表を務めている。
 鎌倉遺文研究会は2025年1月11日(土)、早稲田大学早稲田キャンパス3号館301教室にてシンポジウム「中世史料の編纂と歴史像-瀬野精一郎の仕事-」を開催した。参加者は106名。この内容は『鎌倉遺文研究』第56号(2025年10月刊行予定)に掲載される。

 


NO.228(2025.2.15)
2025年2月9日、京都の秦家住宅(油小路通仏光寺下る)で、大山喬平・三枝暁子・服部光真編『「ムラの戸籍簿」を読み解く―「郷」と「村」の古代・中世―』の刊行打ち上げ会が開かれた。
 この住宅については去年岩波書店から『京都秦家 町家の暮らしと歴史』が刊行され、伝統的な町家で打ち上げ会を催すというまことに「ムラの戸籍簿」研究会らしい試みがなされた。
 1987年まで薬種業を営んでいたという家で、臨場感が濃厚に漂う中で会食が行われ、感動したが、反省会もシビア―に開かれ、誠に有意義な会であった。
 この反省会において、海老澤が執筆した「「郷」優位の中世社会と武蔵国」(上書347~363頁)に対して上川通夫氏から「計画村落」という用語が使用されているが、これは一般的に使用されている用語かという質問があった。
 いままであまり使われることはなかったが、論文中では最近よく眼にする「古代計画道路」あるいは「条里プラン」からの連想で使用した旨を述べた。
 「ムラの戸籍簿」の会では、「郷」と「村」の連関性が一つの論点となるが、対照性も論点となりうると考えていて、この論文では双方のコントラストに重点を置いてみた。まだ考えねばならないことはたくさんあり、「大山史学」とも言いうべき古代から現代にいたる農村の問題は誠に奥が深い。
 写真は二次会での大山氏と海老澤、烏丸通綾小路下るビアバル&バーLitにて。

 


NO.227(2024.12.15)
埼玉県比企郡嵐山町にある史跡大蔵館跡。2024年6月15日撮影。この地は1155年(久寿2)に源義朝の長男義平が叔父源義賢と戦い、殺害した地として知られる。
 源義賢は源為義の子で、秩父重澄の養子として上野国からこの地に入り、勢力を築こうとしてしていたが、鎌倉を拠点としていた源義朝一族と衝突したものである。
 義賢には現地の女性との間に駒王丸と呼ばれる子がおり、合戦の時には乳飲み子であったが、辛くも脱出して信濃国木曽へと逃げ延びることができた。これが後の木曽義仲で,源平内乱時に活躍することとなった。
 大蔵館の遺構は発掘調査の結果、二重の方形館であることがわかったが、12世紀には内側で確認された一辺70mほどの規模であったと推定されている。この館にほぼ接する形で南北に〈鎌倉街道〉と呼ばれる道が走っており、交通の要衝であったことが知られる。

 


NO.226(2024.10.15)
 秦野市名古木(ながぬき)の棚田のために作られた用水源。〈丹沢ドン会〉というボランティア組織が秦野市で造成した棚田の源である。〈ドン〉とはDo for Natureのことで自然に対する働きかけをする団体である。
 おそらく、中世の名主たちが自ら開発して造った水田も最初はこのような水路造りから出発したのであろう。かつて1980年に大分県豊後高田市の大曲地区で見た棚田の水源もこれに似た様相であった。ただし、そこも巧みに石が積み上げられて土止めが丁寧に成されていた。
 ここでは原始的な状況がほぼそのままの形で残されているのである。そのため、本年のように大きな水害があれば、直ちに土石流が発生して自然の脅威にさらされてしまう。ドン会ではそのことも想定して、災害に強い稲を植えている。確かに2024年9月14日のこの日もイネが立派に延びていた。茎が丈部で簡単に倒れることはなく、その先に付く穂は決して多いとはいえないが、しっかり実をつけていた。
 最近の高校日本史教科書では災害に強い稲として赤米(あかごめ)が紹介されることもあるが、近代の品種改良がされる以前の米は当たり前のこととして災害に耐えられるものであったのであろう。

 


NO.225(2024.8.15)
2024年5月11日(土)にシンポジウム〈中世の大垣、美濃国大井荘の調査から5年 荘園研究の現在地〉(大垣市スイトピアセンター)が行われた。
 大垣祭りの前日に開催されたもので、第1部で司会とコーディネーターを勤めた赤松秀亮さんが〈大垣まつりの起点、東大寺領大井荘の歴史〉を話す。
 第2部で、土山祐之さんが〈命をつなぐ、家庭菜園〉、似鳥雄一さんが〈中世荘園の土地調査、近世城下町への展望〉、高橋傑さんが〈近世絵図の可能性―荘園調査を例に―〉を、さらに第3部で、稲葉伸道さんが〈永仁三年(1295)の大井荘〉、海老澤が〈大井荘のサスティナビリティと現代〉を報告する。
 翌日は大垣祭りだが、小雨模様だったため、各町ではこのような時のための催しがおこなわれた。新町が保存する菅原ヤマでは菅原道真の人形が筆を持って額に字を書き、この半紙が宙を舞い、祭りに集まった人たちがそれをありがたく頂戴するというものである。この日は天満宮の社殿の中でヤマを分解して、このカラクリを見学者の目前で実演する。二人で作業をするが、筆を担当する人と額を担当する人が息を合わせて絡繰りを動かし、ヤマの上にいる人形が字を書き上げていくのである。誠に見事な伝統芸だ。
 大垣はもともと聖武天皇勅施入の東大寺領大井荘の地であり、大垣八幡神社は建武元年(1334)に奈良の手向山八幡宮から大井荘内に勧請されたという由緒を持つ。元弘3年(1333)から日本列島全体が未曾有の動乱となり、大井荘は正にその渦中にあったが、殿原と呼ばれる地侍が団結して地域を守る姿勢を示しており、八幡の神の新たな勧請もその一環であったと考えられる。
 現在に到るまで八幡神社が祭りの中心にあり、各町のヤマが八幡神社の社前に集まって奉芸する。最近、ヤマを中心とする祭礼がユネスコの世界無形文化遺産となっている。
 
 
 

NO.224(2024.6.15)
 2024年3月3日に、〈社【やしろ】中世歴史シンポジウム 蘇れ!!神と仏が出会う里〉が開催された。会場は岡山県真庭市の湯原ふれあいセンターで、基調講演は真庭市蒜山(ひるぜん)郷土博物館長前原茂雄氏と海老澤が、コメンテイターは就実大学教授の刈米一志氏が勤めた。  社(やしろ)地区には、延喜式に記載された11社の美作国の神社のうち実に8つの神社が集中していて、古代から神聖なところとして広く知られていた。平安時代末期には京都仁和寺の荘園となっている。  社地区の中心には大御堂と呼ばれる吹き抜けのお堂があり、毎年七月中旬には無病息災、五穀豊穣を祈って百万遍数珠回しが行われる。また10月9日には式内社の大祭が行われ、神集場(かんなつば)に式内八社の神が一堂に会して村人の祈りが捧げられる。  この地は、岡山県の中央を流れ、瀬戸内海に注ぐ朝日川の上流域にあたり、北側には蒜山の高原地帯が展開していて伯耆大山がそびえ、まさに神と仏が出会う地となっている。
 
 
NO.223(2024.4.15)
 東福寺南大門。2024年2月12日、京都東福寺の初午懺法会を見学する。昨年の12月2日に京都学・歴彩館で行われた東寺文書研究会にて「備中国新見荘の地頭方政所と季瓊眞蘂」という報告をさせていただいた時、『䕃凉軒日録』の文正元年二月十日の記載に足利義政が東福寺に御成りし、初午懺法会を聴聞した経緯を述べた。
幸いにもこの初午懺法会が現代にまで継承されていることを知り、東福寺のご厚意により方丈の間で行われる儀式を廊下からガラス戸の入った襖を隔てて拝見・拝聴することができた。方丈の間には観音菩薩のみならず日本の主な神々をも呼び寄せた聖なる空間が現出する。
季瓊眞蘂が客殿と記した法会の場は現在の御所間が併設された方丈にあたるところであり、約30名の僧侶によって行道が行われる。季瓊は、座席数から勘案して約300人の僧侶が参加したと記しており、この数値を信じれば文正期には現在の10倍の規模で行われたことになる。又現在では三幅の観音像が掲げられているが、文正期には明兆の筆による三十三幅の観音像が並べられていた。これも十倍規模となる。
文正期は応仁の乱の直前にあたるが、その法会を現代でも再現できることが素晴らしい。

 
 
NO.222(2024.2.15)
千葉県市川市国府台から見た江戸川と武蔵国。2023年10月13日撮影。治承4年(1180)8月源頼朝は伊豆国で蜂起。
 東に進軍を開始するが、相模及び伊豆の国境に近い石橋山にて平家方についた武士団と戦う。
 石橋山は頂上が明確な山容ではなく複雑な丘陵と谷合の地。劣勢な頼朝軍は全体を晒す事なく戦うことができた。背後は箱根山の深い森林が続く地であった。
 劣勢ながら部下の奮戦に助けられて山に入り、探索から巧みに逃れて、船で安房に脱出。
 安房・上総それぞれの国府では戦いを避けたが、下総では平家方の目代と戦い、国府台にある国衙を襲撃し、これを占拠。この頃には万余の軍団となる。
 国府台は台地上から武蔵国を眺めることができる。眺望の先に敵勢の姿はなく、川の手前に陣取る味方の軍団はふくれあがる勢いとなっていた。頼朝は国府台に立ったとき、東国での勝利を確信したに違いない。



NO.221(2023.12.15)
東福寺の方丈と仏殿。2023年12月4日撮影。嘉禎2年(1236)に九条道家が氏寺法性寺内に伽藍建立を発願してこの大寺院の造営に着手した。開山は円爾弁円。谷筋をうまく生かして回廊をめぐらした伽藍配置が誠に見事である。
 方丈と仏殿は近代に入って再建されたものだが、境内には室町時代に新築あるいは再建された三門や禅堂、塔頭の龍吟庵など、室町時代の禅林の様子をよくとどめている。
 本年、東博と京博で「東福寺展」が開催され、五百羅漢図や涅槃像など多数の巨大な画幅が展示されて観覧者を圧倒するものがあった。特に印象に残ったのは五百羅漢図のなかの巨大な龍の目を治療する僧侶である。
 五山には発想豊かな人材が集まっており、室町将軍もこれらの寺院にお成りをすれば飽きることがなかったのであろう。



NO.220(2023.10.15)
 題経寺の庭園。2023年10月13日撮影。この地区は「葛飾柴又の文化的景観」として2018年に文化庁管轄の重要文化的景観に選定された。
 江戸時代中期に開かれた題経寺はこの文化的景観の構成要素として大きな位置を占める。この寺は安永8年(1779年)以降に寺容を整えていくが、昭和期に入って大客殿と庭園が造作され、広い庭園は回廊によって完全に囲われている。
 方丈・客殿と庭園および庫裡は、室町時代から主に禅宗寺院において新たな展開を遂げ、伝統的な伽藍に匹敵する空間的な地位を占めるに到る。近世初期に安国寺恵瓊によって再建された建仁寺はその典型的な事例として挙げることができるであろう。
 近代に入って仏教寺院は復古的な傾向と同時に洋風化する側面もあるが、この題経寺は仏教文化のサスティナビリティを無理なく取り入れて新たな寺院の形態を作り出した。中心となる帝釈堂の外壁には木造彫刻の細やかなレリーフで法華経の各場面を分かりやすく紹介する。現在ではこれらの壁面をガラスで覆われた回廊で囲い、大客殿・庭園と共に伽藍自体にギャラリー的な要素を取り入れて、多くの人に仏教が本来有している癒しの場を提供している。
 映画「寅さんシリーズ」はここから生まれた。



NO.219(2023.8.15)
 京都祇園祭大船鉾の大楫。2023年7月23日撮影。現存の大楫は江戸後期に作製されたものであり、楫型に整形した木部に雲龍の刺繍を施した羅紗裂(らしゃぎれ)を膠で張りつめている。
 仲哀天皇の皇后であり、応神天皇の母である神功皇后が乗る大船を山鉾としたものである。初代大船鉾は応永29年(1422)または嘉吉元年(1441)に作られたれたと考えられる。応仁の乱で焼失したが、明応9年(1500)に他の鉾とともに再興された。近世においても天明の京都大火(1788)で、神功皇后の神面のみを残して焼失。文化元年(1804)に再興。しかし、禁門の変(1864)で多くを焼失し、以降は休み鉾となっていた。ご神体と懸装(けそう)品を飾るだけの居祭りが行われてきたが、平成7年(1995)にはこれも休止となり、神事のみが行われてきた。
 このような状況を危惧した現代の町衆が平成9年(1997)に宵山の囃子を復活させ、平成18年(2006)に鉾本体の復興がなった。
 このように日本文化のサスティナビリティを象徴する歴史がこの大船鉾には込められている。



NO.218(2023.6.15)
 6月11日(日)に豊後高田市の大字「田染小崎」の田植え行事が開催された。この地は文化庁の重要文化的景観、農水省「つなぐ棚田遺産」に選定され、また世界農業遺産にも認定されている。
 コロナ禍のため三か年間このようなイベントが開かれなかった。本年はようやく開催にこぎつけることができた。両側に早乙女や作男が並んでいる。衣装を着けているのはほぼ全員別府大学の学生。
 カメラマンが100名ぐらいつめかけ、また、家族で田植えを楽しんでいる人も100名ぐらい来て、素肌で田んぼに入る快感を楽しんだ。
 田植えの前には代掻きが行われるが、牛追いに扮しているのは小崎の地(屋号「庄宅」)に居住している中学校の校長先生。100名以上の「荘園領主」を抱える荘園の里推進員会の事務局長は大阪出身の人で、この地に住み着いた移住者。
 「荘園ほたる」という中核施設があり、そこで数百人分の昼食が用意される。「田染小崎」の婦人部の人たちが前日から総出で食事を作る。海老澤は1980年にこの地(当時は大字嶺崎)で調査をし、現在に到っている。鎌倉時代の名主が小さな井堰を点々と作って開発を進め、江戸時代の元禄郷帳での村高は382石。
 田植え行事を行っている水田からは360度見回すことによって村境の尾根のほぼすべてを視野に収めることができ、日本のムラを実感できる。
 


NO.217(2023.4.15)
 樫井川(大阪府泉佐野市)の自然頭首工、一ノ井。2023年2月26日撮影。撮影者は豊後高田市教育委員会の松本卓也氏。
 泉佐野市教育委員会文化財保護課長中岡勝氏の案内を得て、井川(中世に開鑿された用水路)の取り入れ口を見学した後、その下流にある一ノ井を視察。
 たいへん規模が大きく現在でも荒々しい岩壁が露出している。200%程度に画像を拡大していただくとわかるが、海老澤は中央上に小さく映っている。コンクリートで保護されているものの、自然頭首工としての原初的な形態を残している。
この日は「全国中世荘園サミットin泉佐野:中世から伝わる先人の知恵 日本の農業用水」が日根野公民館で行われた。
井川用水の世界かんがい施設遺産登録の記念を兼ねる行事で、海老澤は基調講演「日本的灌漑システムの特性と泉佐野市の井川用水」を行った。
 その事前視察で犬鳴山、八重治池などをめぐり、この一ノ井を尋ねた。
 


NO.216(2023.2.15)
 貫井神社本殿。2023年2月4日撮影。本殿近くの「御本殿造営記念」石碑にある貫井神社由緒によれば次の通り。
鎮座地は小金井市貫井南町3ノ9ノ6。祭神は市杵媛命、大己貴命。創立は天正18年(1590)。湧水の出る景勝地に水神を貫井弁財天と称えて奉祀。明治維新の神仏分離令に際して明治8年(1875)厳島神社と改称、さらに貫井村字一ノ久保に鎮座した貫井神社を合祀し、「村社貫井神社」となった。
本殿は昭和60年(1985)に火災に遭い、再建された。池の水は国分寺崖線の湧水の一つで、野川に合流し、多摩川に注ぐ。



NO.215(2022.12.15)
 備中国新見荘地頭方政所遺跡(1992年3月19日撮影)。竹本豊重氏の案内を得て、約30年前に現地に立った。
東北隅の堀の外側から南方にカメラを向けたものである。この撮影位置の近辺は寛正4年(1463)8月25日に僧祐清が地頭方の百姓から下馬咎めを受けたところであった。
ほぼ同じアングルからの写真は、1986年刊行の『週刊朝日百科 日本の歴史2 中世Ⅰ-2 中世の村を歩く 寺院と荘園』の61頁に掲載されている。「地頭方政所跡」というキャプションが付けられ、「高梁川に間近い河原と「中須」の低湿地帯のなかにあり、今はすべて水田となっている。」という石井進氏の解説が付されている。
鎌倉時代の地頭による河川際低湿地帯の開発として学界に知られることとなったが、この現地の写真は小さく扱われた。上述の『朝日百科』のなかで「下馬咎め」の位置を記した東寺百合文書(サ函399号)の「備中国新見荘地頭方政所指図」は別の地に比定された。しかし、この写真が地頭方政所の正確な位置を示しており、指図との現地照合が可能となった。



NO.214(2022.10.15)
岡山県新見市の谷内集落。橋脚が見えているのは中国自動車道。2022年8月19日撮影。かつて『週刊朝日百科 日本の歴史2 中世Ⅰ-2 中世の村を歩く 寺院と荘園』(1986年)の67頁に掲載された写真とほぼ同じアングルで撮影した。現在もこの集落は変わらぬ佇まいを保っている。
『週刊朝日百科』で伊藤ていじ氏が「備中国新見荘地頭方政所指図(東寺百合文書サ函399)」を詳細に紹介し、百姓谷内の屋敷と地頭方政所を同一のものと見なしたため、その遺構はこの写真の空間のなかに収まるものと考えた。伊藤氏は中世住宅研究の草分け的存在であり、後の研究に多大な影響を及ぼしたが、現在では新見荘の東の境域を流れる高梁川沿いに地頭方政所が存在したと考えられるようになった。
 


NO.213(2022.8.18)
写真は2022年8月18日撮影、広島県福山市にある鞆の浦の福禅寺対潮楼から弁天島とその背後の仙酔島を撮影した。この地は古代から瀬戸内海の要港として知られていた。満ち潮の時には瀬戸内海の東西から潮が寄せてこの地で衝突し、引き潮の時には東西に引いていく。瀬戸内海を東西に航行する船はここで潮待ちをした。
 江戸時代には幕府の慶賀のために訪れた朝鮮通信使もこの場所で潮待ちをした。福禅寺本堂隣にあるこの対潮楼は1690年頃に客殿として建てられたものである。
 2018年にはこの地が日本遺産に選定されたが、そのテーマは「瀬戸の夕凪が包む国内随一の近世港町~セピア色の港町に日常が溶け込む鞆の浦~」であった。中央の船は鞆の浦と仙酔島を結ぶフェリー。幕末に海援隊が活用したいろは丸を模している。
 



NO.212(2022.6.15)
写真は2010年6月13日撮影、重要文化的景観「田染荘小崎の農村景観」の曲線的な畦畔。2022年2月14日、農林水産省は「つなぐ棚田遺産~ふるさとの誇りを未来へ~」の選定をおこなった。これは2019年に成立した「棚田振興法」に基づくもので、全国で271ヶ所の棚田地域が選ばれた。
   農水省は、1999年に「棚田百選」の選定を行っているが、これは保全のための整備活動の推進や農業、農村に対する理解を深めることを目的としたもので、全国134地区が認定されている。このときには、斜度20分の1以上の傾斜地に存在する水田を主な対象としていた。今回は、このような傾斜地に存在する水田を含みつつも周辺の緩傾斜地を包み込む形となっており、面積的にはだいぶ拡大している。「百選」との重複地も約90ヶ所存在するが、新たに選定されたところはその約2倍となっている。
「田染荘小崎の農村景観」として重要文化的景観や世界農業遺産に選定されている豊後高田市小崎地区は今回「田染荘小崎の棚田」の名称で「つなぐ棚田遺産」にも選定された。
 



NO.211(2022.4.15)
2022年3月13日、大分県立歴史博物館開館40周年記念シンポジウム「荘園村落遺跡調査の成果と課題」が開催された(大分県立図書館視聴覚ホール)。
 講演「荘園村落遺跡詳細分布調査の期間に生まれた105のレガシー」をする。このレガシーとは①国指定、県指定あるいは選定の文化財・史跡など、②ユネスコほかの世界遺産、③関連する県市町村の調査報告書(但し、概報は除く)、④別府大学刊行の『豊後国荘園公領資料集成』を指す。
 大分県立歴史博物館は1981年に「大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館」の名称で開館した。同時に文化庁の補助事業として「国東半島荘園村落遺跡詳細分布調査」がこの館に交付され、爾来2021年まで継続された。
 対象地域は、田染荘・都甲荘・香々地荘(以上豊後高田市)、安岐郷・国東郷(以上国東市)、山香郷(杵築市)で、2016年度からは「大分県荘園村落遺跡詳細分布調査」と名称を変え、中津市の沖代条里の調査を行った。
  調査の内容は、考古・歴史・地理・民俗・美術史・保存科学に渡る学際的なもので、海老澤は1981年度から調査員、2009年度から調査委員として全期間に関わった。なお、シンポジウム当日に『沖代条里の調査 資料編』(2020年)、『沖代条里の調査 本編』を加えたので、レガシーは107となった。
 



NO.210(2022.2.15)
多摩川にかかる関戸橋。現在の道路名としての「鎌倉街道」がかつての鎌倉街道を慕うかのように南北に走り、多摩川を渡る。現在では多摩川を境にして北岸が府中市、南岸が多摩市であるが、多摩市側の地名である「関戸」は現在の河川敷全体を占めるかたちで、流水地を含めて川原の北岸に達している。かつてこの地に「関戸の渡し」があった名残であろう。対応する府中市側の現在の地名は「住吉町」であり、その真ん中に京王線中河原駅がある。戦国期には中河原村が存在し、関戸郷に含まれていた。その頃には中河原村の南側に多摩川の支流である浅川が流れ、北側に多摩川本流があったと考えられる。
 現況では住吉町の北側に立川段丘に接するようにして分梅(ぶばい)町がある。その北端で南武線・京王線が交差し、その交差点にある分倍河原駅は河岸段丘の縁に沿って駅舎も複雑な立体空間の中にある。
 立川段丘と多摩丘陵の間の広大な氾濫原には中世石塔が立ち、川と人間の縁の深さを物語っている。
 橋の向こうに見える町は聖蹟桜ヶ丘。
   



NO.209(2021.12.15)
    治承4年(1180)8月に源頼朝が伊豆で旗揚げした後、相模国に入って最初の戦いを行った石橋山の古戦場から相模灘を眺望。2010年11月21日撮影。
 この地は、箱根の雄大な山塊が海岸に迫る地で、高所に立てば遙か彼方まで相模灘の海岸線を見通すことが出来る。しかし、石橋山という名は付されていても、独立した山容が存在するわけではなく、起伏に富む丘が連続するところで、近距離の見通しは至って悪い。散開すれば全軍の配置が把握されにくい地形である。
 源頼朝は頼みにしていた三浦一族の到着が遅れ、不利な情勢を察知して敵軍が味方の全軍を把握できないところに陣を敷いたのであった。各個撃破される危険性はあるが、ただちには包囲攻撃されないことを第一としたのである。この地の豪族、土肥実平と佐奈田与一によって絶体絶命の窮地を救われた。分散し、真鶴岬付近で乗船して安房国に向かう。



NO.208(2021.10.15)
  骨寺村荘園交流館「若神子亭」。2021年9月27日撮影。一関市厳美町字若神子にある。史跡「骨寺村荘園遺跡」および重要文化的景観「一関本寺の農村景観」のコア施設。2011年にオープンした。史跡・重文景の骨寺村に関する歴史と価値を映像や展示によってわかりやすく解説するとともに、産直コーナーやレストランによって広く交流を図ることを目的とした施設。
 9月19日に「令和3年度骨寺村荘園遺跡研究集会-聖地、霊場としての骨寺村と中尊寺との関係-」が開催され(会場・オンライン併用)、世界遺産拡張登録への取り組みが話し合われた。今回、近年の状況を把握するため、改めて現地見学させていただいた。写真のような立派な施設ができ、重要文化的景観の意義を知っていただくための施設としては全国的なモデルとなるものである。
 2008年6月14日に発生した岩手宮城内陸地震により大規模な土砂崩れが起きて、山王窟への道は通行禁止となっている。




NO.207(2021.8.15)
  中津市本耶馬溪町樋田にある荒瀬井堰。2020年9月25日撮影。大分県立歴史博物館が行っている「大分県荘園村落遺跡詳細分布調査」の委員会現地視察。
 大分県中津市の中心部には沖代条里と呼ばれる条里制水田が広がっている。これは山国川の大井堰や湧水によって灌漑されるもので、古代からその開発が始まっていた。人柱を立てることによって完成したという悲しい伝説がある。
 それに対してこの荒瀬井路は平野部より上の台地上の水田造成のために開削されたものである。中津藩が貞享2年(1685)に着手し元禄4年(1691)乃至元禄6年(1693)頃に完成を見た。
 この堰より上手は青ノ洞門で知られた耶馬が連なる絶景の地であり、そこに激しくぶつかった山国川が一瞬流勢を弱め、淀みを作った後、再び勢いを増して下流に向かうところである。堰に必要な標高差を得られやすい絶好の地であるが、まさに「荒瀬」であって築堤が難しい。また、岩盤を刳り貫いたマブ水路が穿たれ、中津藩にとって総力を挙げての事業であった。



NO.206(2021.6.15)
  重要文化的景観「日根荘大木の農村景観」。2021年3月7日撮影。6月には大木小学校の生徒によって田植えが行われる。九条家領和泉国日根荘入山田村。
 1987年12月にシンポジウム「日根庄と歴史的景観―関西新空港と遺跡の危機―」が開催され、泉州沖空港(現在の関空)の建設に伴う景観の破壊がクローズアップされて多くの人がその保存に関心を持つようになった。
 1998年には「日根荘遺跡」として泉佐野市の山間部と平野部にひろがる日根荘の神社・寺院・用水池・水路などが国の史跡に指定された。さらに2005年には写真の中央右寄りの黒く見えるタマネギ小屋周辺が「長福寺跡」として追加指定された。前関白九条政基が1501年(文亀元)3月から1504年(永正元)12月までこの地で直務支配を行い、詳細な記録『政基公旅引付』を執筆したことで知られる。
 写真は史跡指定を受けている円満寺の前から東方を撮影したもの。南から北に樫井川が流れている。この川が山間部から平野部に流れを変えるところで取水された用水路「井川」が史跡の慈眼院・日根神社内を通過して扇状地を横断し、巨大な十二谷池(史跡:羽田―九州の旅客機の窓からしばしば確認できる)に入る。その全行程が史跡となっている。このように灌漑水路が現代に残る荘園遺跡を有機的に結びつけている希有な事例。



NO.205(2021.4.15)
 京都学・歴彩館大ホール(京都市)における講演。2021年3月6日。テーマは「備中国新見荘の景観と地頭方百姓谷内家差図」。ユネスコ「世界の記憶」登録5周年記念の東寺百合文書展「描かれた中世―差図の世界―」の講演会。東寺百合文書には多くの差図(指図)が残されていて、今回前期・後期の二つの期間に分けて素晴らしい企画展が開かれた。講演では、金田章裕館長が東寺百合文書中の差図についてその全貌を話されたのに続いて、海老澤研究室が調査を行った備中国新見荘にかかわる差図についてお話しさせていただいた。
「後期展示」において「“新見荘事件簿”」という展示コーナーが設けられ、寛正4年(1463)および寛正5年の指図と文書、計7点が出展された。これらは、中世の荘園史上著名な領家方代官祐清殺害事件にかかわる資料で、それ故に展示では“事件簿”というテーマ名が付けられた。ただし、荘園景観の中心的な課題でもある「地頭政所跡」の形態と密接にかかわる問題なので、講演で示したように、直接関連する史料は展示されたものも含めて42点以上存在する。東寺百合文書の世界は誠に奥が深い。



NO.204(2021.2.15)
 「弓削島における明治9年「畝順帳」の土地利用」の部分図。『ジャポニカの起源と伝播 伊予国弓削島荘の調査』(海老澤衷編、早稲田大学水稲文化研究所刊、2007年)の附図から掲載した。
 愛媛県越智郡上島町教育委員会では2016年度から2020年度にかけて東寺領伊予国弓削島荘の総合調査を行い、この度『弓削島庄総合調査報告書』を刊行した。A4版で500頁に迫る詳細なものである。かつて早稲田大学水稲文化研究所で行った調査を活用していただき、さらに地区ごとの聞き取り調査や発掘調査の成果などが盛り込まれ、巻頭図版32にかつて早稲田大学水稲文化研究所で行った調査図面(部分)を紹介している。水稲文化研究所の調査では調査時点で消滅していた水田の調査に重点を置いたが、今回の調査では塩田の調査に大きなポイントが置かれている。
 図の灰色の部分が塩田跡である。山内譲氏、服部英雄氏ほかの人々のご努力によって荘園史研究に新たな成果が提示された。



NO.203(2020.12.15)
 「呂久の渡し」渡船場跡。岐阜県瑞穂市呂久。2020年11月15日撮影。「呂久の渡し」は揖斐川を越す渡河点に設けられた。応仁の乱の際には、美濃守護土岐氏と近江守護京極氏を後ろ盾とする勢力がこの地で戦っている。天正期には織田信長により岐阜城から京へ向かう道として活用された。やがて五街道の一つ中山道として整備され、1861年(文久1)には皇女和宮の行列が揖斐川を渡って江戸に向かった。大垣藩は10隻の御座船を用意したとのこと。歴史的パレードを記念して小簾紅園(おずこうえん)という公園となっている。楓が植えられ、紅葉の名所。1925年に揖斐川は付け替え工事が行われ、300mほど東に移動。瑞穂市の行政区画は変更されず、旧河道に沿って以前のままとなっている。



NO.202(2020.10.15)
 東秋留橋から大岳(おおたけ)山・御岳(みたけ)山奥ノ院を望む。御岳神社には伝畠山重忠の赤糸威大鎧が伝存し、武蔵国の原風景となっている。2020年9月28日撮影。手前の橋は旧東秋留橋で1939年に完成した鉄筋コンクリートのアーチ橋。リズミカルで美しく、土木学会推奨土木遺産。現在は、歩行者・自転車走路となり、保存されている。


NO.201(2020.8.15)
 杉山城跡。埼玉県嵐山町。2019年5月5日撮影。2002年度から2007年度にかけて嵐山町教育委員会による調査が行われ、2008年に「比企城館跡群」として国指定史跡となった。この調査により、城郭がつくられた年代は、15世紀から16世紀前半にかけてであり、実質的な築城主体は山内上杉氏の勢力下にあった守護代クラスの武蔵国または上野国の武士であった可能性が高くなった。
 16世紀後半に至り、これらの築城技術を集大成した北条氏によって土塁と郭を精緻に組み込んだ関東の城郭群が出来上がったと考えられる。
 この国史跡指定を前提とした調査により、特に本郭部分の虎口の造作が明確になったことは中世城郭史の基本モデルとして大きな意義を有する。1985年に関口和也氏が作成した縄張図(村田修三編『図説中世城郭事典 一』)がこの城郭の遺構の着目点をほぼすべて詳細に紹介しており、それを下敷きにして今回の調査があった。
 八王子市滝山城に見られる馬出のような大規模な施設は北条氏の創意であろうが、杉山城のように、城主の特定が難しい小城郭の場合、その造作は享徳の乱以降の戦乱の中で上野・武蔵・相模などの土着武士がそれぞれ工夫・考案したと考えるべきであろう。その象徴として杉山城跡は存在する。


NO.200(2020.6.15)
 府中市矢崎町二丁目の柴間通り脇にある「三千人塚」という塚の上に立つ板碑。2020年4月19日撮影。JR府中本町駅から400メートルほど南西に下ったところで、多摩川の河床に近い微高地上にある。2020年3月に刊行された『新 府中市史 中世資料編』679頁以下に、この遺跡の調査の歴史を含め、詳細な解説がある。天保7年(1835)に刊行された『江戸名所図会』に「三千人塚」と呼称され、鎌倉幕府の滅亡直前に行われた分倍河原合戦の戦死者を弔う墓と考えられてきたが、近代に入っての発掘調査の結果、この板碑は康元元年(1256年)にたてられ、聖地化されてその周辺に常滑の蔵骨器などが埋蔵されたものであることがわかった。中世の武士は墓地の造成の際、沖積地を好む一面もあることは、豊後国田原別符(現在の大分県杵築市、『大田村文化財調査報告書第1集 豊後国田原別符の調査Ⅰ』の森の木遺跡参照)でも見られることであった。立地も含めて中世の貴重な埋葬遺跡である。


NO.199(2020.4.15)
 関戸熊野神社(多摩市関戸)から東方を眺望。2020年4月2日撮影。鳥居の手前、参道の南側に中世の柵列跡を示す擬木が一列に並んでいる。鳥居の外側には南北に鎌倉街道が通っており、この柵列は街道と直角になるものであることから中世の木戸の跡ではないかと考えられている。聖蹟桜ヶ丘を舞台にしたスタジオ・ジブリの作品で知られる「いろは坂」は神社の背後の丘陵にある。