〈報告書内容紹介〉 

            本研究の経緯とねらい−対馬・バリ島からの展望−

                                         海老澤 衷

 

1 水稲文化研究所の設立と科学研究費の申請   

 

 科学研究費補助に基づく本研究の概要は、「例言」で述べた通りだが、この研究は早稲田大学のプロジェクト研究所である水稲文化研究所の研究活動の一環をなすものである。2000年4月から開始された早稲田大学の呼びかけに応えて、海老澤は12月に水稲文化研究所を設立した。東アジアにおける水田形成と水稲文化を明らかにすることを目指したもので、大学内において、単に机上の学問としてではなく、様々な実践を行っている教員に呼びかけを行った。その結果、棚田ネットワークに取り組んでいる教育学部の中島峰広教授、ゼミで東北の農村との交流を図っている政治経済学部の堀口健治教授、赤米の実験栽培を続けている考古学の岡内三眞教授、ユネスコでラオスの農村振興に取り組んでいる文化人類学の西村正雄教授、対馬などで農村の伝統芸能の掘り起こしを図る演劇学の和田修助教授が趣旨に賛同され、参加された。一分野に限定されない学際的な研究を目指し、参加いただいた先生方の協力を得て、当初二ヶ月に一度程度の研究会を継続的に開催することができた。開催日時・報告者・題目を示せば次の通りである。内容は、大学のホームページにあるプロジェクト研究所紹介の活動報告欄をご覧いただければと思う。

@2000年12月19日海老澤衷「広域水田遺跡調査の軌跡」。

A2001年2月15日堀口健治「農業政策に関する共生メカニズム」。

B2001年4月9日中島峰広「棚田での教育体験と地域活性化」。

C2001年7月2日和田修「田の芸能」。

D2001年10月4日岡内三眞「実験考古学における赤米栽培」。

E2002年1月4日西村正雄「フィリピン・イフガオ族の農耕儀礼と集落システム」。

 この研究会を通じて、徐々に水稲文化研究所の共同研究の中身が固められていった。2001年、科学研究費の申請時点において、二つの大きな選択肢が存在した。一つは、海老澤が早稲田大学の特定課題研究で行っていた「伊賀国黒田荘の基礎的研究」をさらに進め、水稲文化研究所が取り組む地域総合調査とすること。いまひとつは、かつて九学会連合調査による学際的研究の伝統があり、水稲栽培そのもので研究の深化を期待できる対馬をフィールドとする調査。前者は海老澤の今までの研究に近接し、延長線上にあるが、水稲文化研究所が取り組む課題としては十分なスケールを有していない。後者は、考古学、文化人類学、芸能史、農業経済学(堀口氏は対馬で数度の調査を行っている)などの課題を含み、学際的な研究は可能だが、海老澤の従来の研究からは飛躍の必要がある。共同研究を進めるに当たって大きな岐路であった。10月、棚田学会でお世話になっていた渡仏直前の石井進氏に相談したところ、ただちに「対馬にしなさい。私も一枚加わりましょう。」といわれ、業績表などを郵送していただいた。この時に石井氏のお考えを細かく伺うことができなかったのは返す返すも悔やまれるが、「対馬であれば、国際性と学際性を兼ね備えることが可能」というのが大まかな判断であったと思う。石井進氏は、フランスから帰国した翌日10月24日に物故された。申請書のテーマは「東アジアにおける水田形成および水稲文化の研究(日本を中心として)」と日本を軸として東アジアへの展開を目指すものとした。

 2002年4月、海老澤が理事を務める棚田学会がインドネシア・バリ島のウダヤナ大学と共催し、現地でシンポジウム「モンスーン・アジアにおける棚田」を開催した。この時、海老澤は報告「日本の棚田について」を行ったが、ウダヤナ大学のスタワン氏とピタナ氏によるバリ島の灌漑組織スバックの現況説明が行われた。現地視察においてテガラランとジャテルイで見たバリ島棚田の有する社会性に大きな感銘を受けた。また、バトゥブランにおけるバロン劇、ニョマンギャラリーの絵画、ヤマサリ劇場のガムラン音楽に触れて、科研申請書では必ずしも国際研究の地域を限っていたわけではなかったが、この段階で、水稲文化研究所の国際的かつ学際的な研究はバリ島でこそ可能であるとの結論に達した。このバリ・シンポジウムの直前に科研交付の内示があり、7月から調査事業を行うこととなった。

 

2 申請時における研究目的

 

 申請書作成時における研究目的は、水稲文化研究所の活動に即したものであり、対馬を基軸にして東アジア全体に展開するものであって、次のように構想されていた。

 東アジアの歴史において水田および水稲文化の形成は、きわめて大きな意味を持つ。しかし、その状況は広域に及ぶため、複雑である。大別して、(A)大河川流域の沖積平野に展開するもの、(B)山間地域に棚田状に展開するもの、(C)島嶼における天水灌漑による比較的小規模なもの、に分けられる。最終的には、これらのすべての歴史と、現在における問題点を明らかにすることが課題であるが、当面(B)および(C)の解明をはかりたい。     

 2年間の調査であるため、(B)および(C)の範囲に限定しても、さらに対象を絞らねばならない。厳選の結果、その対象として決定したのは、朝鮮半島と九州の間に位置する対馬である。フィールドとして取り上げた理由は次の三点である。

(1)対馬は弥生時代から江戸時代に至るまで、大陸と日本との交流の接点となり、水稲文化の伝播のうえでも看過しえない地であること。

(2)対馬南部では、赤米栽培が神事として伝承され、現在も続けられており、水田形成および水稲文化を解明する重要な鍵が存在し、また、対馬全域が民俗芸能の宝庫であること。

(3)対馬全島において、圃場整備事業がほとんど実施されておらず(九州全域では、ほぼ完了に近い状況にある)、古い水田の復原・解明が可能であること。

以上のことから、2年間で、対馬における水田形成と水稲文化の解明をはかりたいと考えた。その結果、予想される研究の成果と意義は次の通りである。

@     学術的な特色・独創的な点および予想される結果と意義

 対馬は、日本に残された水稲文化解明の最後の宝庫である。この地を解明するにあたって、学際的な調査を実施するため、既に1年近く準備作業を行い、6回の研究報告会を開き、また現地の予備調査を実施した。このような周到な準備のもと、棚田学会副会長で早稲田大学教育学部の中島峰広、早稲田大学政治経済学部の堀口健治、早稲田大学文学部の海老澤衷・岡内三眞・西村正雄・和田修により、日本史学・地理学・農業経済学・考古学・文化人類学・民俗芸能の各分野からの解明をはかる。従来、水田形成と水稲文化の解明にあたってこのような学際的な調査が、きわめて限定されたフィールドで行われることはなかった。この点において空前の調査となることは間違いない。

 調査の結果、アジア大陸から日本への水稲栽培伝播ルートの一端が解明され、また、なぞの多い赤米栽培の実態が明らかにされ、同時に農業経済学を踏まえて、21世紀の農村のあるべき姿についての提言が行われるであろう。水稲栽培と水稲文化において対馬は東アジアにおけるキーストーンの位置にあり、日本のみならず東アジアの水稲文化の解明に大きく貢献し、同時に東アジア全体に対して米作りを中心とする農村の現代的課題を浮き彫りにすることとなろう。

A     国内外の関連する研究の中での位置付け

 バリ島の棚田状水田は、日本の研究者によっても研究がはじめられたが、それらはほぼ地理学的なものと農学的なものに限られており、農業経済学から民俗芸能までを有機的に追究した学際的な調査はまだ行われていない。また、フィリピンのイフガオ地方では棚田が世界遺産に指定され、その保護に向けて大きく歩みだしている。このプロジェクトに関わった研究分担者西村正雄によって一部の調査はなされているが、その全体的な調査には及んでいない。このような状況からすれば、今回行おうとしている本研究は、東アジアの広い地域で必要とされながら、いまだ実施されていないものであり、その影響は多方面に及ぶことになろう。 また、日本国内においては、農業基盤整備事業の進展の中で、その事前調査が行われ、埋蔵文化財にかかわる調査については、全国の市町村で徹底化が図られたが、水田景観の変貌を視野に入れた全体的な記録作成が行われたところはきわめて少数にとどまっている。したがって、本研究が達成されれば、日本国内および東アジアの国々において類似調査のモデルケースとして大きな意味を持つことになろう。

 このように国際的な研究としては、バリ島に重点が置かれているものの必ずしも的を一点に絞ったというものではなく、2002年以降も模索が続いた。

 

3 21世紀COEプログラム「アジア地域文化エンハンシング研究センター」の発足による当研究の展開

 

 2002年10月に21世紀COEプログラム「アジア地域文化エンハンシング研究センター」が発足した。これは、中国四川省をモデルにしてアジア地域文化の掘り起こしを行う共同研究プロジェクトで、同時に博士後期課程の学位取得に向けての教育に重点をおくものである。アジア地域文化エンハンシング研究センターは、プロジェクト研究所を単位として活動を展開するのが特徴で、奈良美術研究所、長江流域文化研究所、中国古籍文化研究所の三つを拠点とし、シルクロード調査研究所、モンゴル研究所、朝鮮文化研究所、水稲文化研究所、ラオス地域人類学研究所が周辺の文化を研究する単位として設定された。このプログラムの発足にともなって、水稲文化研究所には、さらに日本史分野、考古学分野のスタッフが加わり、一層の充実が図られることとなった。日本史からは、アジアと日本に広い視野を持つ古代史の新川登亀男教授、近世対外交渉史が専門の紙屋敦之教授、近世幕藩体制国家からアジア民衆史へと翼を広げる深谷克己教授、それに考古学からは最近パプアニューギニアの調査を進めている高橋龍三郎教授である。

 従来の経過から赤米神事や伝統的な民俗行事を残す日本の対馬と、世界的な棚田地帯で、独特の宗教と芸術を有するインドネシア・バリ島を選んで研究を進めてきたが、これを南北軸の研究と位置づけ、COEプログラムで中国・四川省を地域文化のモデルとして共同研究を行うことから、中国と日本との東西軸を設定し、研究を推進することとなった。その際、大陸と深い関係を有し、古代から中世にかけて水田開発に大きく寄与した東大寺・東寺・高野山の三寺院を取り上げ、研究を推進することとした。既に2002年度には「対馬の歴史と民俗」というテーマのもとにシンポジウムを開催したが、この新たな状況により2006年度までを見通した研究期間のなかで、シンポジウムの計画を立てている。

2003年度:東アジア村落における水稲文化の儀礼と景観(10月25日に開催)

2004年度:古代・中世仏教寺院の水田開発と水稲文化(11月27日に開催予定)

2005年度:ジャポニカ・ジャワニカの起源と伝播

 2004年度においては、東大寺を中心として中国文明の強い影響を受けた日本の寺院における水田開発と水稲文化を取り上げる。これは21世紀COEプログラムの趣旨に沿ったものであり、科研申請時には取り上げることができなかったテーマといえる。

 

4 水稲文化研究所における「東アジアにおける水田形成および水稲文化の研究(日本を中心として)」の視野

 

 以上のように水稲文化研究所の活動領域は状況の変化によって拡大してきたが、これも研究の深化・発展であると考えておきたい。ここでは、科研テーマ「東アジアにおける水田形成および水稲文化の研究(日本を中心として)」に立ち返り、再度そのねらいを明確化しておく。先行する対馬の調査として忘れてならないものに九学会連合調査がある。対馬全島を対象として、1950年から1952年にかけて行われた大規模なもので、参加団体は、日本人類学会、日本言語学会、日本考古学会、日本宗教学会、日本民族学協会、日本民俗学会、日本社会学会、日本心理学会、日本地理学会であり、これに建築史や日本史の研究者が加わった。このあと能登の調査に継承されたが、時代を経るとともにそれぞれの学会の活動が細分化される状況となって、このような学会を横断する調査は姿を消していった。その意味で人文系の学際調査として記念碑的な価値を有する。

 統一的な成果は、『対馬の自然と文化』(古今書院、1954年)にまとめられているが、水野清一編著『玄海における絶島、対馬の考古学的調査』(東亜考古学会、1953年)や宮本常一著『中世社会の残存』(未来社、1972年)などにもこの時の調査成果が盛り込まれている。ただし、この時点では統一的な文献資料調査は行われず、田中健夫氏による調査が唯一の成果としてあげられる。その後、国士舘大学、長崎県、東京大学史料編纂所によって文書の採訪が行われ、宗家文書の目録が作成されるとともに全島的な文書の豊富な所在状況が把握されるに至った。したがって、九学会連合調査の段階では、文献資料上の限界があったことは事実である。

 申請時には、まだ十分に絞り切れていなかったが、今回、対馬の南端に位置する豆酘(つつ)を重点調査地区として選定した。この地は九学会連合調査の際、日本民族学協会を中心とし、他の学会も調査を行った主要な調査地の一つであった。宮本常一氏がこの地に伝わる民俗行事を詳細に分析されており、半世紀を経た今日ではすでに調査不能となっているものも多い。ただし、文献資料については、宮本氏が照合されたものはきわめて限られたものであり、また高縮尺の図面は当時存在せず、これらのことから豆酘の集落・水田の全面的な復原調査には至っていない。この地が赤米栽培とその神事を残す日本の水稲文化の一断面を語るほぼ唯一の地である以上、伝統が継承されているうちに徹底的な究明を行っておく必要があろうと考えた。今回の調査においては、コマ数にして約6000点の史料収集を行い、また1977年10月撮影の空中写真と森林基本図により、集落と耕地の全面的な復原を目指した。宮本氏を中心とする九学会連合調査の成果を生かしつつ、いわば最先端のデジタル資料を組み合わせることによって、現段階におけるこの種の調査のモデルを示すことができることになる。今後21世紀COEプログラム「アジア地域文化エンハンシング研究センター」の展開に役立つのみならず、水田農耕を基盤とし、東シナ海に連なる港を有する村落研究のスタンダードとしての価値を有するものとなろう。

 たが、このプロジェクトはそれだけを目指すものではない。豆酘に密接に関わる中世内山文書を取り上げても、その関係する領域は現在の下県郡のほぼ全域に及び、必然的に一郡規模の寺院・神社・遺跡に関わり、対馬の島主・守護・藩主として君臨した宗氏および府中である厳原にその考察は及ばざるを得ない。さらに宗氏は、中世から近世にかけて長い間朝鮮との外交に携わってきた。そもそも対馬を選定した大きな理由は、この島が絶海の孤島ではなく、文化交流の架け橋となる地であることにあった。このような視点からの研究は、九学会連合調査の段階では未だ十分とはいえず、その後半世紀の間に豊富な文献資料により長足に進歩を遂げた分野である。今回の調査においても豆酘の地自体が、海上交通により九州博多−対馬府中−朝鮮半島への開かれた地であることが確認されている。

 このように巨視的に見れば水稲文化圏に属する対馬の歴史的役割を明らかにすることも本研究の課題の一つである。また、その前提として対馬一円の中世史料の存在を明らかにすることも基礎的な課題として重要である。竹内理三氏による『長崎県史 史料編1』の対馬史料に関する網羅的な収集および国士舘大学による悉皆的な調査と目録作成によって示されたように、この地の文書史料の豊富さには刮目すべきものがあるが、それらを総合した目録作成には至っていない。今回この点でもささやかな貢献を行う必要があろう。また、豆酘についての網羅的な収集作業ができたことも本研究の成果として特筆されよう。

 このようにプロジェクトの中心となる日本の島嶼の研究については方法が固まったが、国際的なフィールドの選定については、申請書提出段階で明確にされていたわけではない。

 2002年のウダヤナ大学でのシンポジウムで、海老澤はバリ島の持つフィールドとしての可能性に魅了されたが、そこへ切り込む方法については明確にしえなかった。2003年3月、水稲文化研究所のスタッフ、中島・堀口・深谷・岡内・紙屋・新川・海老澤に米谷均・清水克行が加わってゼネラルサーベイを行った。最終日の3月11日、午前中に河合(4月から水稲文化研究所客員助教授)も参加してペジェン村の巡見調査の後、ウブドのレストランにて食事をとりながら、今後の方針について話し合いがもたれた。雨季末期の強雨のため、降り込められた形となり、ゆっくりと議論ができたが、そこでは異口同音に地域文化研究の適地であることが述べられた。期せずして今後の水稲文化研究所の行方を定める重要な会議となり、研究拠点としてのバリ島の位置が固まった。しかし、この時点において、対馬豆酘のようなピンポイント調査地点については、まったく目途が立っていなかった。

 8月、海老澤・西村で第二次調査を行った。この時には、ウダヤナ大学で総括的な協力体制を確認することも目的であったが、有望なフィールドを探し、今後の継続的な調査につなげることを目指していた。タバナン県のクロボカンとカランガスン県のバサンアラスの二地点を詳しく踏査することができたが、このうち、バサンアラスにて調査の折、灌漑組織スバックの責任者が「MONOGRAFI SUBAK BASANGALAS」を提示した。これは、1984年にインドネシア政府が顕著な活動を行っているスバックを選定して報告書を提出させたものであった。1000分の1の実測による図面がつけられていて、十分とはいえないが対馬豆酘との比較研究を可能とするものであった。調査の方途に一筋の光明を見出し得たのは大きな収穫であった。

 しかし、ウダヤナ大学においてもこのMONOGRAFIの所在状況をあきらかにできず、今後の課題となっている。現段階では、水稲文化研究所独自の調査をようやく行いうるところに達したというところである。12月ウダヤナ大学農学部と覚書を交換し、今後4年間共同でMONOGRAFI SUBAKに基づく調査を行うことになった。

 なお、この12月のバリ島調査では、スバック・バサンアラスについてまとまった調査が出来、日本の村落における水田灌漑体系との比較研究が可能となった。

 

5 本研究が明らかにすべきこと

 

 以上述べてきたように、本研究は幅広い分野の研究者の理解を得て、展開の途上にあるが、現段階における一応の輪郭を示しておく必要があろう。

@対馬の歴史と史料

 既述のように、九学会連合調査の段階においては、「文献資料の宝庫対馬」の扉はまだ開けられていない状態であった。この時点における竹内理三氏・田中健夫氏の努力は、その後大きな実を結び、特に古代・中世・近世の対馬を軸とした対外交渉史は飛躍的な進歩を遂げた。本研究ではまず、この点の確認とその研究水準をさらに引き上げる努力がなされねばならない。新川による「終末期古墳から見た対馬」は考古学の新たな成果を大胆に取り入れた新見解が示されている。対馬の中に存在した最前線の認識は、今後の研究に波紋を呼ぶことになろう。米谷の「1479年に来日した朝鮮通信使による対馬紀行詩文集」は15世紀末の対馬の状況を示した史料がまだまだ発掘途上にあることを示している。また、関による「中世対馬の課役と所領」は、海に開かれた対馬の所領と領主の特質が、従来の研究水準を踏まえて史料に即して提示され、この分野のスタンダードとなりうるものであるといえよう。徳永の「対馬中世文書の現在」は個々の研究者と研究機関によって積み重ねられてきた文書調査の交通整理をし、その全体像に迫るものであり、今後対馬の史料群に踏み込む際のガイダンス的役割を果たすものとなるであろう。

A水稲文化の儀礼

 水稲文化の儀礼を探究する際、そのスタンダードとなるのはバリ島である。河合の「バリ島村落の劇場的性格」を一読していただければ、水田を基盤とする村落の儀礼がいかにシステムとして確立されているかをご理解いただけるものと思う。これは本研究全体のコンセプトでもある。これに対して、対馬の場合は水稲文化だけで村落の儀礼を解明することは出来ない。それをよく示しているのが和田の「対馬における芸能と村落」である。海域のなかでの文化の交流と儀礼の在り方が示され、島嶼研究のもう一つの側面を明らかにする狙いが込められている。本石の「豆酘の赤米神事」は、アカゴメの持つ神性が最高度に高められた対馬豆酘の赤米神事の年間サイクルを明らかにする。ここでは水稲文化の儀礼の輪郭が明らかにされなければならない。

B水稲文化と村落景観〈豆酘からの発信〉

 「調査の目的と概要」で詳述するが、本研究では1980年代以降の農村の共同研究で蓄積されてきた方法を駆使して儀礼と村落景観を追究した。巻頭の頁には、堀の「対馬豆酘の景観復元」の成果である「明治前期の土地利用図」を掲載した。九学会連合調査の時点では考えられなかった調査方法の進歩を実感していただければ幸いである。黒田の「対馬豆酘の村落景観と祝祭空間」および徳永の「豆酘関連史料について」では、日本の村落が蓄積してきた共同体の儀礼と史料の豊富さには改めて驚かされるものがあり、この豆酘の地が今後の東アジア村落研究の一基点となるものであることをご理解いただけるであろう。吉田の「金剛院所蔵資料の整理・保存」は寺院での資料整理の委託を受けて、現代における文献整理の方法を試みた。本田の「内山村における中世山林相論と寛文検地長の分析」では照葉樹林帯文化の海のなかに島のごとく存在する水田とその儀礼の持つ意味を改めて考えさせるものがある。

C対馬とバリ島の比較研究

@〜Bにより対馬とバリ島の比較研究が可能となる。ただし、本研究の段階ではバリ島村落の研究は緒に就いたばかりであり、灌漑概況による検討が出来るのみである。それでも5千q以上離れた両地を比較しうる文化と社会の共通性には十分考えるべきものがあろう。第4部の総論では、これを「村落共同体の管理が優越する水利社会」として捉えてみた。対置すべき「国家管理が優越する水利社会」については、提示してみたものの踏み込んだ研究はこれからというのが現状である。