水稲文化研究所の理念と活動

海老澤 衷

 

1 水稲文化研究所設立時の目的                  

 早稲田大学のプロジェクト研究所である水稲文化研究所は、200年12月1日に発足した。当初の目的はおよそ次のようなものであった。

 東アジアの歴史において水稲耕作は、きわめて重要な意味を持つ。水稲耕作の普及が、社会形成の上で、大きな役割を果たしたことは、日本を例にとっても、弥生時代の開始、水田およびそこから収納される米を行政の基盤としたその後の国家の歴史から明らかである。この研究所においては、@水田形成の歴史と、A 水稲が育んできた文化、に焦点をあてて研究するものである。
  まず、@であるが、大別して沖積平野におけるものと、山間地域におけるものがある。前者においては大河川の氾濫原に位置するもので、ガンジス川やメコン川や長江などをあげることができるであろう。これらの地域では古来、国家的な治水事業とともに水田の維持が図られてきたが、現代においても国家的なプロジェクトとして開発計画が立てられている。これに対して後者の山間地域に属するものは、地域の農民の長年にわたる努力によって切り開かれたもので、棚田と呼ばれる景観を呈している。近年、環境的な視点から棚田の見直しが図られ、フィリピンのイフガオ地方では、世界遺産として登録されるに至っている。以上のように沖積平野においても山間地域においても水田の歴史は社会状況と密接に関わっているが、その形成については多くの謎があり、それらの解明は人類史および人類が生き残りを図る上での大きな課題である。
  次に、Aであるが、広義には水稲耕作が普及して以降のその地域におけるすべての文化を含むものであろう。しかし、それはあまりに広大であり、ここでは、水稲耕作周辺の民俗行事に限定しておきたい。日本では、「田遊び」、「御田植え祭り」等の行事が該当するが、アジア一帯に広く同様な祭礼が存在する。また、収穫祭に関連して、神事として新米による酒造りが行われるところもあり、十分な調査を行う必要があろう。
  以上のような水田景観およびそこで培われた文化は、近年の全アジア的な農村の疲弊によって危機に瀕しているといっても過言ではない。その保存をどのようになすべきかも大きな課題となる。

 

2 初期の研究活動

 上記のような目的のもと、2002年の3月までは個人の研究蓄積を持ち寄って共同研究への道を模索した。いわば、水稲文化研究所の助走期と位置づけることができるであろう。この時期の個人報告会は後の共同研究に繋がる意義を有するので、その内容を紹介しておきたい。

第1回研究報告会】

日 時 : 2000年12月19日
会 場 : 大隈会館楠亭
報告者 : 海老澤 衷
テーマ : 広域水田遺跡調査の軌跡−国東半島における20年−
概 要 : 広域水田遺跡」という文化財保護上の概念が提示されて約20年の歳月が経過した。これは1978年に地方史研究全国大会において出された「圃場整備事業に対する宣言」に象徴される農村景観の保存と記録作成の運動に対応するものであった。当時文化庁で史跡を担当していた河原純之、服部英雄氏によってこの宣言が受け止められて、条里制水田と荘園遺跡を統合するものとして「広域水田遺跡」が考え出された。1983年9月には「広域水田遺跡保護の実態状況」がまとめられ、84年1月に奈良国立文化財研究所で開催された条里制研究会において河原氏により報告がなされている。このような状況の下、いわば河原氏、服部氏の全国的な構想のなかで81年からスタートしたのが「国東半島荘園村落遺跡詳細分布調査」であった。その受け皿となったのが、大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館(81年10月開館、現大分県立歴史博物館)である。その端緒については「文化財レポート 豊後国田染荘の復原調査」(『日本歴史』393号、1981年2月号)で述べた。調査の対象としたのは宇佐八幡宮領豊後国田染荘(現在の大分県豊後高田市)で、あらゆる角度から見て良質な広域水田遺跡がこの地に存在することを多くの人に認識していただいた点は、その後の調査の展開に好影響を及ぼしたといえよう。なお、2000年度からこの地区に田園空間博物館構想が取り入れられ、景観保全が図られるようになった。   ※この報告内容は『日本歴史』635号(2001年4月)に掲載した。

【第2回研究報告会】

日 時 : 2001年2月15日
会 場 : 政治経済学部名誉教授室
報告者 : 堀口 健治
テーマ : 農業政策に関する共生メカニズム
概 要 : 農地や水のような農業資源、地域資源といった、地域としての経済活動−私的経済活動だけでなく−にも寄与する準公的資源の管理、利用の形態は、公−共−私の役割分担の中で、共は多くの貢献が可能な分野である。その点、土地改良区は農地利用者の負担による地域的な水、土地管理システムの担い手だが、共の役割を果たしているといえよう。すべてを公に依存するのではなく、また資源をすべて私に分割して非効率的な利用に供するのではなく、農地利用者が共同して資源を利用する形の組織である。この土地改良区へ地方公共団体が補助金や共同プロジェクトを投入し、水、農地などが私的な経済活動のみの観点で利用されるだけでなく、公的・地域的な観点で利用される方向に誘導することが実際に行われている。農業の共の組織に、非農業が関与して、共生する形である。地方公共団体がすべての施設を含めて自ら立ち上げ、イニシアル・コストを負担すると巨大な額になるが、土地改良区の施設を利用することで効率的に準公的目的を達成することが可能である。共の役割が機能したというべきであろう。ある意味でPFIの考え方に共通するかもしれない。具体的な事例として新潟市・亀田町・横越町にまたがる亀田郷土地改良区の例をあげる。
【第3回研究報告会】

  日 時 : 2001年4月9日
  会 場 : 教育学研究科委員長室
  報告者 : 中島 峰広
  テーマ : 棚田での教育体験と地域活性化
  概 要 : 棚田の活用・保全の取り組みで、現在最も活発な展開を見せているのが棚田オーナー制度である。これは都市住民が農村の自然や農業の営みを評価して、会費を払い、市民農園として棚田を借り受け、地元農民の指導のもとで、基本的には農業体験を行うものである。行政が特定農地貸付の特例により農家から土地を借り受け、通常1年間の期限で都市住民に市民農園として貸し出している。都市と農村の関係について次のような変化が見られる。
〔従来〕農村から都市へ−人が出て行き、農産物が送られる。
〔現在〕都市から農村へ−人が来て、景観を楽しみ、泊まり、農産物を買い、作業を手伝う。この制度は、1992年に高知県檮原町で始められ、全国に展開し、現在六十数か所で行われている。

【第4回研究報告会】

  日 時 : 2001年7月2日
  会 場 : 文学部第6会議室
  報告者 : 和田 修
  テーマ : 田の芸能
  概 要 : 田の芸能には様々なものがあるが、その源泉をたどると、実際に田植え現場で行われたものと、「田植えの興」として貴族に賞翫されたものとがある。『栄華物語』には治安3年(1023)のこととして、藤原道長の周辺で、田植えの興が盛大に行われていたことが記されている。そこではすでに田楽の芸も見られ、中世に盛行した田楽能の始原が存在した。この田楽は現在でも那智などで見られるところである。実際に農村で行われた予祝行事として、「田遊び」がある。東京都板橋区下赤塚や静岡県大井川町藤森などにも伝承されている。後者の場合には、農村共同体のなかで一人前の扱いを受ける儀式である「氏子なり」も兼ねている。このほかにも、現在に伝えられているものは多数に上るが、「国山の御神事」(福井県福井市)には通常の田植え神事のほかに「柴落とし」という神事があり、注目すべきものがある。

【第5回研究報告会】

  日 時 : 2001年10月4日
  会 場 : 考古学研究室
  報告者 : 岡内 三眞
  テーマ : 実験考古学における赤米栽培
  概 要 : 最近の考古学会では、日本の水田耕作が縄文時代晩期にさかのぼることが明らかにされ、また、単に稲のプラントオパールが検出されるということではさらに古い遺跡からの報告がなされている。日本本土ではジャワニカとジャポニカが縄文時代から存在する可能性が高まっている。1998年に報告者自らケンブリッジ大学のキャンパスで赤米栽培の実験を行った。周到に準備しておこなったが、北緯50度を越すこの地では、野生に近い赤米でも、開花し、稲穂をつけることはなかった。
  黒色を帯びた稲穂の香川大学農学部で栽培された対馬原産の赤米と、外見が黄緑色の稲穂である北上の赤米の実物を提示し、多くの品種が存在することが明らかにされた。現在、所沢市のトトロの森で、実験を行っている。農作業や自然条件のデータをとり、秋に収穫した後には復元土器で調理し、試食する。

【第6回研究報告会:公開シンポジウム「東南アジアの棚田と農耕民族」】

  日 時 : 2002年1月4日
  会 場 : 文学部310教室
  報告者 : 西村 正雄
  テーマ : フィリピン・イフガオ族の農耕儀礼と集落システム
  概 要 : 次の6章にわたって報告が行われた。(1)イフガオ族の地理的背景、(2)イフガオ経済システム、(3)イフガオ社会−政治システム、(4)イフガオ族の集落システム、(5)イフガオ文化の統合、(6)イフガオ文化の中心価値観。イフガオ族はイネを精神・物資の象徴と考え、特別な価値観を有し、それ故急斜面であっても棚田を切り開いていく。焼畑にすることは考えない。これがイフガオ族の中心価値観である。以前の研究では、イフガオ社会はなんら村落レベル以上の政治組織を持っていないと考えられていたが、近年分析が進み、高い生産性を維持するグループに所属する集落は低いレベルの集落から農作業に従事する人々をやとい、その代わり、彼らは、自分たちの稲作田から獲れた生産物の一部を、そうした作業員に与えなくてはならないのである。イフガオはこのような社会であった。

3 「東アジアにおける水田形成および水稲文化の研究(日本を中心として)」(科学研        究費基盤(B)(2))および21世紀COEプログラムによる共同研究

 2002年4月から「東アジアにおける水田形成および水稲文化の研究(日本を中心として)」(科学研究費基盤(B)(2))が採択され、共同研究への道を本格的に歩むこととなった。この研究では、一応東アジア全体を視野に入れていたが、実質的には対馬を中心とするものとなった。2年間の研究であるため、対象を絞らねばならない。厳選の結果、その対象として決定したのは、朝鮮半島と九州の間に位置する対馬であった。フィールドとして取り上げた理由は次の三点である。

(1)対馬は弥生時代から江戸時代に至るまで、大陸と日本との交流の接点となり、水稲文化の伝播のうえでも看過しえない地であること。

(2)対馬南部では、赤米栽培が神事として伝承され、現在も続けられており、水田形成および水稲文化を解明する重要な鍵が存在し、また、対馬全域が民俗芸能の宝庫であること。

(3)対馬全島において、圃場整備事業がほとんど実施されておらず(九州全域では、ほぼ完了に近い状況にある)、古い水田の復原・解明が可能であること。

 この年の10月には21世紀COEプログラムアジア地域エンハンシング研究センター(拠点リーダー大橋一章氏)が発足した。このセンターは、早稲田大学に設置されている8つのプロジェクト研究所から構成され、中国文明と地域文化の重層的な諸関係を四川と近隣地域の関係(四川モデル)から敷衍して明らかにすることを設置目的としたものである。気候風土から、アジアの地域文化を@乾燥地帯とオアシス文化、A草原地域と遊牧文化、B森林地帯と狩猟文化、C亜熱帯と稲作文化の四つに分類し、それぞれをプロジェクト研究所が分担して研究を進めるもので、このうち、水稲文化研究所はCの「亜熱帯と稲作文化」をラオス地域人類学研究所と共に担当することとなった。 水稲文化研究所の研究方針は、東アジアにあって日本とインドネシア・バリ島という南北の島嶼を比較研究するとともに、仏教文化を共通項として日本と中国の水稲文化を探求する、いわば東西軸の研究も視野に入れることとなったのである。これを契機として、日本史専修の教員3名と考古学専修の教員1名が新たに加わることとなった。現実の問題として対馬とバリ島の比較研究が可能となったといえよう。2002年11月2日には、文学部681教室にてシンポジウム「対馬の歴史と民俗」を開催した。報告は、海老澤衷「九学会連合調査から半世紀を経て」、関周一「中世対馬の所領表記について」、本田佳奈「中世対馬の耕地と山の開発」、本石正久「豆酘(つつ)の赤米神事について」であった。この間バリ島と対馬の比較研究が本格化し、2003年10月25日には、文学部681教室にて、シンポジウム「東アジア村落における水稲文化の儀礼と景観」を開催した。報告は、海老澤衷「「劇場国家」の普遍性と限界」、河合徳枝「バリ島村落の劇場的性格」、和田修「対馬のおける芸能と村落」、黒田智「対馬豆酘における空間構成と天道信仰」、西村正雄「劇場国家論とその後の文化人類学的研究」であった。2005年3月には2年間の共同研究をまとめて、報告書『東アジアにおける水田形成および水稲文化の研究(日本を中心として)』を刊行した。

4 共同研究「東アジア村落における水稲文化の儀礼と景観」(科学研究費 基盤(A))と   アジア地域文化エンハンシング研究センター

 2004年4月からは、科学研究費基盤(A)「東アジア村落における水稲文化の儀礼と景観」が採択され、共同研究も本格化することとなった。11月27日は文学部681教室にてシンポジウム「古代・中世仏教寺院の水田開発と水稲文化」を開催し、それの内容が今回刊行することとなった『講座水稲文化研究T』は、このシンポジウムのまとめである。

水稲文化研究として、南北軸は既に明らかにしたように対馬とバリ島の比較研究というかたちで、提示することができた。それに対して中国文明を視野に入れた東西軸の研究の第一歩がこのシンポジウムであった。日本の場合には、7世紀から8世紀にかけての律令国家形成期に、インドに発生し、中国において大きく形を変えた仏教を受容することによって社会の骨格を創り上げてきた。この努力は古代から中世まで長く続けられてきた。このような日本社会の形成・展開の過程で大きな役割を果たした仏教と寺院に視点を定め、問題を明らかにした。新川登亀男、田村憲美、横内裕人の三氏によって斬新な歴史事実の提示があったが、さらに平松良雄氏によって豊富な発掘事例が示され、実りの多いシンポジウムとすることができた。