『海のクロスロード対馬』の刊行にあたって

海老澤衷

 

 対馬は、朝鮮半島と日本列島の間に位置する面積六九六平方キロメートルの島嶼で、長く大陸と日本との懸け橋としての役割を担ってきた。この地に着目した学際的な調査として、一九五〇年から五一年にかけて行われた九学会連合調査がある。参加団体は、日本人類学会、日本言語学会、日本考古学会、日本宗教学会、日本民族学協会、日本民俗学会、日本社会学会、日本心理学会、日本地理学会であり、これに建築史や日本史の研究者が加わった。このあと能登の調査に継承されたが、時代を経るとともにそれぞれの学会の活動が細分化される状況となって、このような学会を横断する調査は姿を消していった。その意味で人文系の学際調査として記念碑的な価値を有する。統一的な成果は、『対馬の自然と文化』(古今書院、一九五四年)にまとめられているが、水野清一編著『玄海における絶島、対馬の考古学的調査』(東亜考古学会、一九五三年)や宮本常一著『中世社会の残存』(未来社、一九七二年)などにもこの時の調査成果が盛り込まれている。

 このような地を早稲田大学のプロジェクト研究所である水稲文化研究所が改めて調査をすることとなったのは二〇〇二年のことで、二一世紀COEプログラムのアジア地域文化エンハンシング研究センターの発足が契機となった。この年、海老澤を研究代表者として科学研究費基盤研究(B)「東アジアにおける水田形成と水稲文化の研究(日本を中心として)」が同時にスタートし、二〇〇三年に早稲田大学大学院のスタッフと現地調査を行い、授業で対馬の史料を講読することとなった。その際、対馬の南端に位置する豆酘(つつ)を重点調査地区として選定した。この地は九学会連合調査の際、日本民族学協会を中心とし、他の学会も調査を行った主要な調査地の一つであった。宮本常一氏や石田英一郎氏がこの地に伝わる民俗行事を詳細に分析されており、半世紀を経た今日ではすでに調査不能となっているものも多い。ただし、文献資料については、宮本氏が照合されたものはきわめて限られたものであり、また高縮尺の図面は存在せず、当時においては豆酘の集落・水田の全面的な復原調査には至っていない。この地が赤米栽培とその神事を残す日本の水稲文化の一断面を語るほぼ唯一の地である以上、伝統が継承されているうちに徹底的な究明を行っておく必要があろうと考えた。コマ数にして約六〇〇〇点の史料収集を行い、また一九七七年一〇月撮影の空中写真と森林基本図により、集落と耕地の全面的な復原を目指した。宮本氏を中心とする九学会連合調査の成果を生かしつつ、いわば最先端のデジタル資料を組み合わせることによって、現段階におけるこの種の調査のモデルを示すことを目標とした。

 だが、このプロジェクトはそれだけを目指すものではない。豆酘に密接に関わる中世内山文書を取り上げても、その関係する領域は下県郡のほぼ全域に及び、必然的に一郡規模の寺院・神社・遺跡に関わり、対馬の島主・守護・藩主として君臨した宗氏および府中である厳原にその考察は及ばざるを得ない。さらに宗氏は、中世から近世にかけて長い間朝鮮との外交に携わってきた。そもそも対馬を選定した大きな理由は、この島が絶海の孤島ではなく、文化交流の架け橋となる地であることにあった。このような視点からの研究は、九学会連合調査の段階では未だ十分とはいえず、その後半世紀の間に豊富な文献資料により長足に進歩を遂げた分野である。今回の調査においても豆酘の地自体が、海上交通により九州博多ー対馬府中ー朝鮮半島への開かれた地であることが確認されている。

 このように巨視的に見れば水稲文化圏に属する対馬の歴史的役割を明らかにすることも本研究の課題の一つであった。また、その前提として対馬一円の中世史料の存在を明らかにすることも基礎的な研究として重要である。竹内理三氏による『長崎県史 史料編1』の対馬史料に関する網羅的な収集および国士舘大学・東京大学史料編纂所による悉皆的な調査と目録作成によって示されたように、この地の文書史料の豊富さには刮目すべきものがあるが、それらを総合した目録作成には至っていない。今回この点でもささやかな貢献ができたものと考えている。また、豆酘についての網羅的な収集作業ができたことも本研究の成果としてあげられよう。

以上述べてきたように、本研究は幅広い分野の研究者の協力を得て展開されたものであるが、読者の理解を得るためにその輪郭を示しておく必要があろう。本書では二部の構成をとっている。

@      対馬の遺跡と天道信仰

 新川登亀男氏による「終末期古墳から見た対馬」は考古学の新たな成果を大胆に取り入れた新見解が示されている。対馬の中に存在した最前線の認識は、今後の研究に波紋を呼ぶことになろう。海老澤の「対馬における天道信仰と照葉樹林の保護」は、かつて東アジアに広く展開しながら開発によってその姿を消した照葉樹林が対馬で長く保護され、現在に至っている事実を示して、森林とコメに対する信仰が融合した天道信仰の歴史的役割を明らかにした。黒田智氏の「対馬豆酘の村落景観と祝祭空間」は、天道信仰の実態を歴史的に解明し、そのコスモロジーに迫ったものである。豆酘において赤米神事と山林信仰が一体化したその宗教性に見られる地域文化が明らかにされている。堀祥岳氏の「対馬豆酘の耕地と集落―明治地籍図による復原的研究―」は、近代初頭における土地利用のあり方からこの地の開発形態を探ったものである。本石正久氏の「豆酘の赤米神事」は、アカゴメの持つ神性が最高度に高められた対馬豆酘の赤米神事の年間サイクルを明らかにするもので、多久頭魂神社神主の立場から詳細な考察が加えられている。対馬のクロスロードとしての性格をよく示しているのが和田修氏の「対馬における芸能と村落」である。海域のなかでの文化の交流と儀礼の在り方が示され、島嶼研究のもう一つの側面を明らかにする狙いが込められている。

A宗氏の支配と対馬史料群

 既述のように、九学会連合調査の段階においては、「文献資料の宝庫対馬」の扉はまだ開けられていない状態であった。竹内理三氏・田中健夫氏の努力によって古代・中世・近世の対馬を軸とした対外交渉史は飛躍的な進歩を遂げた。本研究では、この点の確認とその研究水準をさらに引き上げる努力を行った。関周一氏による「中世対馬の課役と所領」は、海に開かれた対馬の所領と領主の特質が、従来の研究水準を踏まえて史料に即して提示され、この分野のスタンダードとなりうるものであるといえよう。本田佳奈氏の「内山村における中世山林相論と寛文検地帳の分析」では照葉樹林文化の海のなかに島のごとく存在する水田とその儀礼の持つ意味を改めて考えさせるものがある。米谷均氏の「一四七九年に来日した朝鮮通信使による対馬紀行詩文集」は一五世紀末の対馬の状況を示した史料がまだまだ発掘途上にあることを示している。黒田智氏の「対馬豆酘郡主の系譜」は中世対馬における豆酘の政治的位置を明らかにしたもので、九学会連合調査の時点では明らかにされなかった豆酘の持つクロスロードとしての性格が明らかにされている。徳永健太郎氏の「対馬中世文書の現在」は個々の研究者と研究機関によって積み重ねられてきた文書調査の交通整理をし、その全体像に迫るものであり、今後対馬の史料群に踏み込む際のガイダンス的役割を果たすものである。吉田正高氏の「金剛院所蔵資料の整理・保存」は寺院での資料整理の委託を受けて、現代の方法論に則った文献整理の方法を試みたもので、大きく変化した最近の史料調査のあり方を示した。

 本書では一九八〇年代以降の農村の共同研究で蓄積されてきた方法を駆使して儀礼と村落景観を追究した。九学会連合調査の時点では考えられなかった調査方法の進歩を実感していただき、この豆酘の地が、日本史分野の研究が蓄積してきた村落研究の方法論によって今後の東アジア村落研究の一基点となるものであることをご理解いただけるであろう。現地調査にあたって資料提供を快く引き受けてくださった地域の人々に改めて感謝申し上げたい。

なお、科学研究費基盤研究(B)「東アジアにおける水田形成および水稲文化の研究(日本を中心として)」では、二〇〇四年三月に成果報告書(A4判、二八三頁)を刊行した。本書はこの成果報告書に基づいたものであるが、巻頭カラー図版「豆酘の水田開発」(黒田智・堀祥岳氏作成)・「近代豆酘の土地利用」(堀祥岳氏作成)を初めとして紙幅の都合により割愛した成果も多い。成果報告書を引用する際は『科研基盤B報告書水稲文化』と略表記したのでご了解いただければ幸いである。なお、二〇〇四年三月一日をもって、この地の厳原町、美津島町、豊玉町、峰町、上県町、上対馬町は合併して対馬市となった。この調査は、基本的に合併以前に行ったものであるが、本書の刊行にあたっては表記上対馬市に改めている。

 

二〇〇七年二月七日