2013年度 海老澤ゼミ「備中国新見荘の研究」 前期内容
月日 担当者 担当文書 内容      
4月 8日 似鳥 雄一         ガイダンス
4月 15日 赤松 秀亮         卒論報告「室町期荘園の代官請負制 ―東寺領播磨国矢野荘を中心に―」
    細田 大樹         卒論報告「戦国大名間外交における取次 ―房総里見氏を事例として―」
4月 22日 稲垣 伸一         卒論報告「中世大徳寺の組織と経営 ―塔頭如意庵を例に」
    高橋 遼         卒論報告「義輝期幕府における三好氏の位置づけについて」
5月 6日 川崎 玉幸         卒論報告「義長期大内政権発給文書について」
    オンサクル・シラス         卒論報告「北条政子の権力掌握と彼女の人格との関連について」
5月 13日 伊藤 紋圭 668〜671、692、696 概要 668、669 寛正4年(1463)10月 本位田家盛が相国寺上使との問答、祐清殺害事件の詳細について報告。百姓等が地頭方政所屋の新造を拒否している旨を三職が報告。
          692 寛正4年(1463)10月 上総増祐を新見荘に下す間の雑掌役を、駿河寺主に仰せつける。
          670、671、696 寛正4年(1463)11月 上使増祐・祐深が下向、現地の状況を報告。本位田家盛が現地の状況を報告。
        注目文書 668、669   祐清殺害事件に関わる東寺と新見荘との文書のやり取りから、在地側は東寺の命令に従うだけでなく、自らの権利・外聞を守るために様々な手段を用いて積極的に行動していたものと評価し、在地側の強い主張を支えた背景には本位田家盛の存在があった可能性を指摘した。
        討論     本位田家盛はもとは矢野荘の田所であり、荘官クラスという点で新見荘の三職とは同格であるが、両者は文書の作成にあたってどのようなコミュニケーションをとっていたのか、という疑問が提示された。
              「たまかき」書状の問題に関して、本位田には「たまかき」に対する丁重さが見受けられることから、「たまかき」書状の位置付けを見直すべきだ、との指摘があった。
        目録訂正 696 (年月日) 寛正4年カ→寛正4年11月4日
5月 20日 松本 卓也 672〜678 概要 672、675 寛正4年(1463)11月 2か月分の夫銭3貫文が到来、支配法式を決定。
          673 寛正4年(1463)11月 官務家が年貢2貫文を請取。
          678 寛正4年(1463)11月 地頭方の代官・上使が政所屋の捜物の注文を提出。
          676 寛正4年(1463)11月 相国寺蔭凉軒から政所屋の新造について催促。
          677 寛正4年(1463)11月 上使増祐・祐深、金子衡氏が政所屋の新造について東寺からの指示を要請。
        注目文書 677   地頭方政所屋について再建事業の経過を整理した上で、指図(690号、743号、目録脱のカ函270、カ函271)などから視覚的な復元を試みた。
        討論     報告者がカ函270、カ函271の情報を優先して作成した政所屋の復元図はあくまで地頭方が要求してきたものであって、実際にはそれよりもかなり間取りの小さい743号にもとづいて再建されたのであり、そのことはすでに高橋敏子氏が指摘済みである、との指摘があった。それに従い、報告者は復元図のタイトルを「地頭方要求の政所屋再建計画復元」と改めた。
              678号の見捜物の記載があまりに詳細であることから、もともと政所屋が焼き打ちにあう以前から何らかの備品のリストがあったのではないか、との可能性が提示された。
        目録訂正 674 (削除) 新見荘に関係しないため削除。
          678 (月日) 寛正4年11月日→寛正4年11月(11日以前)
          目録脱 (追加) (寛正4年11月11日以前)「新見荘地頭方政所屋客殿指図」(カ函270)を追加。
          目録脱 (追加) (寛正4年11月11日以前)「新見荘地頭方政所屋台所指図」(カ函271)を追加。
5月 27日 千葉 桜子 679〜683、690、695 概要 695 寛正4年(1463)11月 夫銭の支配法式を決定。
      (11月7日〜22日条)       季瓊真蘂への雑具の返還を命ずる折紙の発給について評議。
              季瓊真蘂が政所屋の造立を命ずる折紙を飯尾之種に渡すよう要求。
          679、680 寛正4年(1463)12月 東寺が両上使に年貢等を催促、政所屋の新造、紛失物の糺明と地頭方への返却を指示。
          681、682 寛正4年(1463)12月 祐深が上洛。三職が政所屋指図と祐清の失物注文、割符2つを進上。
          683 寛正4年(1463)12月 祐清が殺害された際の失物注文。
        注目文書 695   祐清殺害事件のその後への影響に注目し、相国寺・室町幕府との敵対、混乱に乗じた守護使の入部、さらには年貢未進の表面化、本位田家盛の罷免へとつながったものと考察した。
        討論     681号、682号で現地から報告されている「割符を借りる」という状況が、果たして当時一般的であったのかどうかが議論となった。
6月 3日 青木 拓巳 654 概要 654   祐清が発給した寛正3〜4年分の年貢請取状、および本位田家盛の所務注進状。寛正6年に東寺が本位田家盛の所務に不審を抱き、散用状の提出を命じたことから作成された。
        考察 654   辰田芳雄氏による先行研究を踏まえて祐清の年貢徴収について考察した結果、祐清は徴収の成果をあげたとは評価できず、東寺もそのようにみなしていたのではないか、との疑問を提示した。
              祐清は年貢徴収よりも、市場での米などの売却に力を発揮したのではないか、と評価した。
              高瀬・中奥では不作であった寛正3年にも米価が下落したことについては、里村では豊作であった可能性を指摘した。
        討論     祐清の所務を評価する上では、祐清が徴収した年貢を何年の分として処理したかが重要ではないか、との指摘があった。
              祐清の所務が果たして荘民の反発までも招くものであったのか、という点では確かに疑問が残るという意見が出され、本文書を読み解く際には祐清の意図と、本位田・三職の意図とを区別する必要があるとの指摘がなされた。
6月 10日 川崎 玉幸 684〜687、695( 概要 684、685 寛正4年(1463)12月 三職、増祐・本位田家盛が政所屋・紛失物の件に対する百姓等の反応、相国寺使者への対応状況について報告。喜阿弥が下向・上洛。
      11月28日条〜)   686 寛正4年(1463)12月 増祐が注進状(670号、671号)を届けた夫丸の遅配について説明、紛失物は地下人が取り散らしたことを報告。
          687 寛正4年(1463)12月 増祐が政所屋の新造・紛失物の返却について経過を報告。相国寺力者の善性が上洛。
          695 寛正4年(1463)11月 政所屋の件で季瓊真蘂に会尺料を渡すかどうかについて評議。
            寛正4年(1463)12月 祐深・喜阿弥が上洛。
            寛正4年(1463)12月 季瓊真蘂に折紙代1000疋の支払いを決定。
        注目文書 685   寛正4年末〜5年初の百姓等の動向について確認した上で、逃散をちらつかせる、複数の交渉ルートを用いるなど、百姓等は目的達成のために多様な手段を用いて積極的に行動したものと評価した。
        討論     686号にみえる「比内ニ少々地下人も取、又他所へも取候、焼失もあるへく候哉」というのが、紛失物に関する実際の状況だったのではないか、この「他所」には地頭方も含まれるのではないか、との指摘があった。
              高瀬・中奥の百姓等のうち吉川・田曽が逃散に踏み切ったことについて、この両地は里と奥をつなぐ当時の交通路の中央部に位置することから、リーダーとしての役割を担っていたという可能性が提示された。
6月 24日 高橋 遼 691、697〜700、 概要 691 寛正4年(1463)10月 下久世荘の召夫を備中へ下す。沙汰人が難渋を示すが両使の問答により了承。
      763(〜3月30日条   698 寛正5年(1464)1月 東寺が増祐に政所屋の本屋一宇の新造、紛失物3種の地頭方への返却、年貢等の催促を指示。
          699 寛正5年(1464)2月 東寺が増祐に政所屋の本屋一宇の新造を指示。
          700 寛正5年(1464)2月 喜阿弥(木阿弥)の下向とりやめ、不要となった料足600文の借書の紛失状。
          763 寛正5年(1464)1月 相国寺力者の善性が上洛、現地の状況を報告。
            寛正5年(1464)2〜3月 細川持賢が新見氏・南禅寺僧を代官職に補任するよう口入。
          697 寛正6年(1465)1月 本位田家盛が割符1つ10貫文(夫賃1貫文)、公事紙4束を送進。
              東寺が増祐に政所屋の本屋一宇の新造、紛失物3種の地頭方への返却を指示。
        注目文書 763   今回の新見荘代官職口入において、@細川持賢が前面に出ている点については、山名氏を刺激しないように典厩家が京兆家の代理として行動したためであるとし、A南禅寺僧を推挙した点については、東班衆の持つ高い荘園経営能力を評価した細川氏が、他勢力の新見荘への進出を阻止し、代官職に関する混乱の決着を図ったためとした。
        討論     京兆家と典厩家の連携関係に対して、備中守護家がどのような関わりを持っているのか、という疑問が提示された。
              果たしてこの時点において、「京兆家」と「典厩家」という家の分立意識が明確に存在したのか、という指摘があった。なお763号で細川持賢の奏者・使者としてみえる「一宮」「一宮三郎」が一宮賢長を指すとすれば、両者の間で偏諱の授受がなされている可能性があるとの指摘もなされた。
        目録訂正 697 (年次) 寛正5年→寛正6年
7月 1日 細田 大樹 701〜706、763(4 概要 702 寛正5年(1464)3〜5月 季瓊真蘂との交渉、了蔵・春阿弥の下向に関する入足の注文。
      月2日〜12日条)   701 寛正5年(1464)3月 三職が政所屋の新造について経過を報告。
          703〜705 寛正5年(1464)3月 増祐・本位田家盛が政所屋の新造、紛失物の糺明について経過を報告、領家方と地頭方の夫丸が同道して上洛したことを通知、国節料紙5束を送進。吉川・田曽の百姓等が逃散・還住。
          706 寛正5年(1464)4月 国吉名の夫丸が路銭200文を借用。
          763 寛正5年(1464)4月 運上された紙5束を寛正4年分として支配。
              政所屋本屋の造立が完了したことを飯尾之種を通じて季瓊真蘂に連絡。
        注目文書 704、705   新見荘と京都間の交通事情に関して、注目文書にみえる三石関の「折紙」とは京上夫の安全な往来に不可欠な「過書」であるとした上で、三石関のような主要道を通れずに日数・費用が多くかかってしまう場合や、過書が発給されない場合もあったことを示した。
        討論     山陽道以外の道、例えば新見荘から美作方面へ出る道についてはどう評価するべきか、との疑問が呈された。
              政所屋本屋の屋根葺き下ろし作業に、領家方だけでなく地頭方の百姓等も参加しているのは、両者の「手打ち」と評価すべきである、との見解が出された。
              政所屋の再建が実際には新造ではなく古屋の解体・再利用によって進められていることを、季瓊真蘂には知らせずに現地での解決に委ねるという姿勢を相国寺の同宿が示したことは、相国寺の内部でも事態の収拾に向けて現実的な判断がなされたのではないか、との指摘があった。
7月 8日 稲垣 伸一 707〜713、763(4 概要 707、708 寛正5年(1464)4月 東寺が増祐・三職に政所屋の台所造立・本屋内作、紛失物の糺明を指示。了蔵が下向。
      21日〜6月10日条   709、710 寛正5年(1464)4月 東寺が増祐に送った書下の案文を檀那寺・現地に送付。
          711 寛正5年(1464)4月 東寺が政所屋の台所造立・本屋内作、紛失物の糺明を指示(宛先不明)。
          713 寛正5年(1464)5月 湯方止足散用状。
          763 寛正5年(1464)6月 了蔵が上洛、現地の状況を報告。
          712 寛正6年(1465)5月 寛正3年と同5年の現夫・夫銭の貢納実績に関する注文。
        注目文書 709   政所屋造立・紛失物糺明に関して、東寺は幕府・相国寺に対しては慎重な対応を取り、おおむね従う姿勢をみせていたこと、新見荘の現地に対しては厳正な態度で臨み、上使や三職に忠節を求めていたことから、東寺はさらなる問題の発生を防止すべく意識していたものと考察した。
        討論     712号をみるかぎり、「奇数月は現夫、偶数月は夫銭」とする当初の取り決め(695号、寛正4年3月3日条)は全く守られておらず、むしろ冬は現夫、それまでは夫銭という傾向があり、季節性に規定されているのではないか、との指摘がなされた。
        目録訂正 710 (文書名) 「東寺書下案」→「東寺書下土代」
          711 (文書名) 「東寺書下案」→「東寺書下土代」
          712 (年月日) 寛正5年5月5日→寛正6年5月日
7月 15日 赤松 秀亮 714〜722、763(6 概要 714、716 寛正5年(1464)6月 増祐・本位田家盛が政所屋の本屋内作・台所造立、紛失物の糺明について経過を報告。
      12日〜7月25日条   715 寛正5年(1464)6月 三職が政所屋の台所造立を承服、紛失物のうち数点を提出。
          717、718 寛正5年(1464)6月 相国寺領に対する後花園天皇の譲位段銭について、直進なので国での催促を停止するよう、幕府が備中守護代に命ずる。
          719 寛正5年(1464)6月 備中守護代が領家方代官に譲位段銭の支払いを要求。
          720 寛正5年(1464)7月 禅仏寺領新見荘地頭職に対する後花園天皇の譲位段銭について、直進なので国での催促を停止するよう、幕府が備中守護代に命ずる。
          721、722 寛正5年(1464)7月 備中守護代が領家方上使に「旬付」の請取状を発給、「使中」(守護使か)に出立を指示。
          763 寛正5年(1464)7月 細川持賢が代官職について口入、今後他家と契約することがあれば自分が先約であると主張。
        注目文書 719、721、722   新見荘への譲位段銭の賦課と免除に至るまでの過程を整理した上で、冷静な対処によって守護使を退去させた上使・三職の外交手腕を高く評価し、都鄙間の緊密な連携が成功した事例として位置付けた。
              刊本では「向付」と翻刻されている箇所を「旬付」と読み、段銭納入の際の前金の意味で理解した。
        討論     現地における守護使退去へ向けた動きと、京都における段銭免除へ向けた動きとは、ひとまず別々のものとしてみるべきではないか、との意見が出された。
              百姓等は「安富が代官の時にも守護使が2度入部したが、守護不入なので追い出した」(724号)と言っているが、武家代官の時代にも守護使を追い出すことができたのであれば、百姓等が直務支配を要求したのは守護方への対応のためというだけでなく、そのほかにも百姓等にとって直務支配にどのようなメリットがあったのか再考すべきではないか、との指摘があった。
        目録訂正 719 (文書名) 「備中国守護細川勝久奉行人有岡経資等連署書状」→「備中国守護代石川経郷等連署書状」
          721 (文書名) 「備中国守護細川勝久奉行人庄経郷等連署書状」→「備中国守護代石川経郷等連署書状」
          722 (文書名) 「備中国守護細川勝久奉行人庄経郷等連署書状」→「備中国守護代石川経郷等連署書状」