2014年度 海老澤ゼミ 「美濃国大井荘・茜部荘関係史料講読その1」
2014年度海老澤ゼミ総括
月日 担当者 担当文書(史料集番号) 内容      
4月7日 土山祐之         ガイダンス
4月14日 日向寺朋子         卒論報告
4月21日 根岸直史         卒論報告
4月28日 土山祐之 1〜3 概要 1 天平勝宝8年(756) 大井荘の初見史料。大井荘の勅施入文書であり、四至が記されている。
        2・3 弘仁9年(818) 厚見荘(茜部荘の前身荘園)の初見史料。朝原内親王の遺言により、父桓武天皇の菩提を弔うため母酒人内親王の手によって東大寺二会(華厳会・法華会)料として施入される。
      考察   「大井・茜部荘の先行研究」 中村直勝氏の研究から現在の研究に至るまでの先行研究をまとめる。これまで注目されてきた事象や今後検討を深めていく必要がある点などを指摘。
      討論     田島公氏の先行研究に即して立荘当時の四至を説明。大井・厚見荘双方ともに皇族からの寄進であり、初期の施入は天皇に連なる土地で屯倉であった場所が多い、という指摘があった。
            「庄」という語彙はいつごろから使われるようになるのか、という疑問が提示された。
5月12日 高橋遼 4〜6 概要 4 天暦4年(950) 天暦年間における東大寺の寺田規模及び収入・支出の一部を示す史料。構成としては、@東大寺封戸と封物A東大寺領荘園B東大寺の支出という三部構成。大井荘の田地面積を知ることのできる初見史料。
        5・6 天徳4年(960) 東大寺別当光智が東大寺領の再建を図り、国衙による臨時雑役の免除や国衙以外からによる牢籠の停止を求め、それを認める旨が記された太政官牒。
      考察   「東大寺領茜部荘の荘域について」 茜部荘の四至を検討し、天徳4年太政官牒に記されている「北限朴垣」は四条北縄付近であると指摘。
      討論     北陸に東大寺領荘園が多い理由には、東大寺が越前の郡司と近しい関係があり、公的な開発がしやすい場所であったという指摘がされた。
            報告者から、天徳4年は茜部荘にとって一円所領化・一円不輸化の第一歩に位置づけられるのでは、という指摘があった。
            茜部荘の東南堺は川に接しており、荘域の変化が起こりやすく、北西堺は平田荘と接しており堺相論が発生しやすい条件下にあったという指摘がされた。
5月19日 久下沼譲 7〜11 概要 7・8 長徳4年(998) 長徳4年における東大寺領所諸国在地田地目録の写し(8号)と断簡(7号)。茜部荘の田地面積を知ることのできる初見史料。
        9〜11 長久元年(1040) 長久元年6月に出された荘園整理令を背景に荘園への介入を強め、造内裏料加徴・防河夫役といった臨時雑役の賦課を図ってきた国司の動きに対応すべく、東大寺は朝廷に働きかける。その結果課役免除の裁定を得て獲得した長久元年12月28日の官宣旨案。
      考察   「長久元年十二月二十八日付官宣旨案が収録された三つの文書群について」 長久元年の官宣旨案が伝来した三つの文書群について検討。文書群ごとに納められている史料を整理。
      指摘     7号文書は長徳4年に作られた目録を写し、他の年の検見などの際に使用されたものである可能性が高いという指摘があった。
            文書群はどのように伝来したのか、三つのまとまりはいつ頃から形成されたのか、という疑問が提示された。
            文書群ごとにどのような性格があるのか、何らかの意味(目的)があるのではないか、という指摘があった。この問題については今後の課題となった。
5月26日 赤松秀亮 12〜18 概要 12 永承7年(1052) 美濃守高階業敏が茜部荘三十町七反の租税や官物を免除するよう厚見郡司に命じた符の案。
        13 天喜元年(1053) 茜部荘荘司・住民らが、国司による臨時雑役の賦課の停止・四至の確定・国司の不入を東大寺に要求したもの。
        14・15 天喜2年(1054) 13号文書をうけ、東大寺が朝廷に働きかけた結果出された、大井・茜部荘の収公を免除するよう国司に命じた官宣旨案。
        16〜18 天喜2年(1054) 大井・茜部荘への加徴物賦課を免除するよう国司に命じた官宣旨案。14〜18号文書は同じ日付の官宣旨であるが、14・15号文書は収公の免除を命じたのに対し、16〜18号文書は臨時雑役賦課免除を命じている。
      考察   「十一世紀後半の朝廷による財源確保政策と東大寺領荘園」 天喜4年における大井・茜部荘の不入権認可にあたっては、伊賀国黒田・玉瀧荘を巡る情勢が影響していたことを指摘。
      討論     永承7年美濃国符案は官宣旨が下されたことをうけて出されたものである、という指摘があった。
            報告者から、13号文書において荘司・住民らが「東大寺別当が4年ごとに遷替することが支配の問題点である」という寺院内部の問題を指摘している点は注目される、という指摘があった。
            報告者から、13号文書では茜部荘のみの解状であるが、14号文書において東大寺は大井荘からも解状が提出されたと主張しており、両荘が連携して解状を提出したのではないか、という指摘がされた。それに対し、連携ではなく東大寺が大井荘・茜部荘を一体のものと認識していたという「意識」の問題ではないかという指摘があった。
            報告者から、担当文書の範囲では黒田荘をめぐり東大寺と伊賀国司が相論を行っていた時期であり、そのような状況が大井・茜部荘の対応に繋がっていたのではないか、という指摘がされた。それに対して、伊賀国では武力闘争/美濃国では法廷相論、という別の状況となったが、伊賀(黒田・玉瀧)と美濃(大井・茜部)との違いはなにか、という疑問が提示された。
            坂本賞三氏が提唱された、「前期王朝国家」「後期王朝国家」論を検討する必要があるのではないか、という指摘がされた。
6月2日 細田大樹 19〜24 概要 19・20・23 天喜2年(1054) 14〜18号文書をうけて美濃国司高階業敏が提出した請文案。宣旨に従うことを承諾しつつも措置に対しては不満を抱いている。
        21・22 天喜2年(1054) 19・20・23号文書を踏まえて美濃国司高階業敏が現地の当事者である荘官に送った庁宣。免除された田数の通り地子物を進上するよう命じている。
        24 天喜3年(1055) 大井荘住民らが東大寺政所に提出した解文。@陸奥国貢上御馬雑役の免除A四至内に残っている公田二町余りの官物・色々雑事の免除B一条院造廊作料の免除、などを要求したもの。
      考察   「天喜三年の動向について」 天喜4年の官宣旨獲得は別当交替のみが契機となったのではなく、武力闘争を経て国司小野守経が対話路線へと姿勢を変化させたことが大きいこと。24号文書は伊賀国の情勢が落ち着いたときに出されていること、などを指摘。
      討論     21・22号文書に「去年免数」という語彙があることから、基準国図が存在していたのではないか、という指摘があった。
            報告者から、21・22号文書は19・20・23号文書が出されてからかなり時間が経過しており(約4ヶ月)、そのことから国司はやはり不満を抱えていたのではないか、という指摘がされた。
6月9日 稲垣伸一 25〜31 概要 25 天喜4年(1056) 東大寺にあてて出された官宣旨案。天喜3年12月の東大寺からの奏状をうけて出されたもの。この宣旨により、@黒田・玉瀧・大井・茜部荘の堺四至における牓示の設置A国司不入権・国役免除が認められる。康平4年(1061)以降、東大寺における諸権益の正当性を示す根拠となるもの。
        26〜31 天喜4年(1056) 美濃国にあてて出された官宣旨案。内容的には25号文書とほぼ同じもの。
      考察   「天喜四年における官宣旨発給の背景について―天喜の修造事業との関連から―」 天喜4年の官宣旨発給の背景には、同年に始まる東大寺の大規模修造事業が影響しており、東大寺としては修造事業の財源確保が目的だったのではないか、ということを指摘。
      討論     四至を堺する、という行為は領域を形成することであり、領域型荘園への言及・考察も必要ではないか、という指摘があった。
            財源確保という目的であるのならば、なぜ黒田・玉瀧・大井・茜部荘のみが官宣旨の対象となったのか、という疑問が提示された。
6月16日 日向寺朋子 32〜36 概要 32〜36 天喜5年(1057) 天喜4年閏3月の官宣旨を受けて美濃国司藤原定房が提出した請文案。
      考察   「天喜年間までの荘園整理令と大井・茜部荘」 延喜から天喜までの荘園整理令と大井・茜部荘との関連性についてまとめる。
      討論     報告者から、天喜4年閏3月の官宣旨が出された時期は、美濃国司が高階業敏から藤原定房へと交替する時期であり、官宣旨から一年以上を経過して請文が出される背景には、官宣旨が新国司に都合の悪いことであるので請文提出までの期間が一年以上もあったのではないか、という指摘があった。
            35号文書は33号文書を写したものではないか、という指摘があった。
            案文は、33→35・36→32・34という順で作成されたのではないか、という指摘があった。
6月23日 オンサクル・シラス 37〜40 概要 37 康平元年(1058) 大井荘で行われた検田の際に、検田使に提供する品物の注文。
        38〜40 康平3年(1060) 康平3年5月に東大寺から出された奏状をうけて出された官宣旨案。美濃国司に対して康平元年・2年の東大寺封戸を支払うことを命じたもの。奏状には、国司が天喜4年に定められた牓示を無視して入部しており、それを停止してもらいたい、旨も記されている。
      考察   「平安時代の検田に関する先行研究と康平元年大井荘検田の関連性」 平安期に行われた検田についてまとめた上で、大井・茜部荘の検田のあり方ついて指摘。
      討論     38〜40号文書では、大井・茜部荘とともに大和国清澄荘の事例も記されているがそれはなぜか、という疑問が提示された。
6月30日 熱田順 41〜52 概要 41〜43 康平3年(1060) 康平3年5月に東大寺から出された奏状をうけて出された官宣旨案。38〜40号文書では東大寺封戸を支払うことを命じ、41号〜43号では美濃国司源師良によって壊された牓示の打ち直し及び雑役賦課・国使派遣の停止を命じたもの。
        44〜46 康平3年(1060) 41〜43号文書を発給したものの美濃国司が請文を提出しなかったため、再度雑役賦課の停止・国使不入を命じた官宣旨。
        47〜49 康平4年(1061) 康平4年8月に東大寺から出された奏状をうけて出された官宣旨案。大井・茜部荘に国使を派遣すること、雑役を賦課することを禁止するもの。
        50〜52 康平4年(1061) 47〜49号文書をうけて美濃国司源師良から出された請文案。文書後半部分には両荘への干渉について、「検田使入部→坪付帳の作成→免符発向」という一連の手続きを経てから免田が設定されるもの、という国司の主張が記されている。
      考察   「東大寺領荘園における国使不入の背景―東大寺別当に注目して―」 10世紀中期から11世紀中期にかけての東大寺領の動向を、特に東大寺別当に注目して考察。各別当ごとに寺領のあり方にも差が見られ、別当個人の資質が東大寺領の維持・拡大に影響していたことを指摘。
      討論     報告者から、康平4年8月の奏状の内容は康平3年5月の奏状とほぼ同内容であり、国司による干渉行為が継続していたことが指摘された。
            47〜49号文書は大井荘で発生していた諸問題に対して出された官宣旨なのではないか、という指摘があった。
            国司の論理も国衙側の視点で見れば正しいのではないか。史料が残されている寺社側からの視点だけでなく、国使側からの視点も重要視しなければいけない、という指摘があった。
7月7日 根岸直史 53〜61 概要 53〜55 康平4年(1061) 康平4年10月に東大寺から出された奏状をうけて出された官宣旨案。国使入部を禁止するもの。50〜52号文書で請文を出したにもかかわらず、国司による干渉行為は継続。国司側は50〜52号文書に記した免符発向までのプロセスに加えて、天喜4年閏3月の官宣旨に「検田使」という文言がないという理由で国使(検田使)を入部させていたことがわかる。
        56〜58 康平4年(1061) 53〜55号文書をうけて美濃国司から出された請文案。
        59〜61 康平4年(1061) 47号文書をうけて美濃国司が安八郡司に出した国符案。国司が郡司に対して「御馬逓送・防河役」の徴収を停止している。
      考察   「美濃国司の主張の論点について」 長久年間から治暦年間にかけて在任した5人の国司の動向を追い、「免除領田制」を基盤とした国司のあり方を検討。大井・茜部荘における「別名制」は、延久の荘園整理令を画期として11世紀末から12世紀にかけて成立するのではないかと指摘。
      討論     臨時雑役使とはなにか、という疑問が提示された。それに対し報告者から「臨時雑役の徴収にあたった在庁官人のことを指すのではないか」という補足報告があった。
            報告者から、59〜61号文書に国使入部の停止が記されていないのは、天喜4年閏3月の官宣旨に「検田使」の文言がなく国使の入部を継続させようとしていたためではないか、という指摘があった。
            在地と国司との間で「免除領田制」の意識が乖離していくのではないか、という指摘があった。
7月14日 大島創 62〜69 概要 62〜64 治暦2年(1066) 治暦元年12月に東大寺から出された奏状をうけて出された官宣旨。美濃国司に対して、大井・茜部荘への陶器・薬草・砂金・御馬などの官使への逓送供給や臨時雑役賦課を停止するよう命じたもの。
        65・66 治暦2年(1066) 62〜64号文書をうけて国司から安八・厚見両郡司に出された国符案。前司分については免除していないので徴収せよという内容も記されている。
        67〜69 治暦2年(1066) 65・66号文書をうけて安八郡司から美濃国司に出された請文案。
      考察   「治暦の相論」に関する一試考―同時期における荘園整理政策の転換から」 内裏再建を目的とする荘園整理令をうけ、収公や賦課を推進する国司と、それから逃れようとする寺家・社家との間で紛争が激化。延久の荘園整理令によって大井・茜部荘両荘の公験が記録所で初めて審査される。審査では「寛徳以後は収公」という原則ではなく天喜の官宣旨を公験とし、本来加納となるべき田地も本免田となったため、両荘の相論は激化の一途をたどる、ということを指摘。
      討論     65・66号文書から、当時の郡司のあり方(主体性を持った郡司の動き)がわかるのではないか、という指摘があった。
            治暦年間の相論が、その後の大井・茜部荘にどのような影響を与えたのか、という疑問が提示された。
9月29日 赤松秀亮 70・71 概要 70 延久2年(1070) 延久元年(1069)に発せられた荘園整理令(延久の荘園整理令)によって、美濃国においても荘園整理が実施される。本文書は大井・茜部荘の加納収公について、朝廷から東大寺に対し、加納の子細を弁明することを命じたもの。
        71 延久2年(1070) 70号文書が下された後、再度東大寺に対し@茜部荘の桑・畠を国領とするのは道理に合わない旨について弁明することA大井・茜部荘において四至が定まり臨時雑役の免除が認められている公験を提出すること、を命じたもの。
      考察   「延久の荘園整理令と大井・茜部荘の中世荘園化」 大井・茜部荘の中世荘園化の画期は論者によってまちまちだが、「領域的荘園」が中世荘園であるという視点に立てば、往古の公験が認められ国家による保護を得るに至った延久期が、大井・茜部荘にとっての中世荘園化の画期である、ということを指摘。
      討論     封戸が長く滞納され、その代わりに免田を設定するという事象は平安後期には多くみられることである、という指摘があった。
            荘園側の視点ではなく、延久の荘園整理令をうけて国衙がどのように対処したのか、ということについて踏み込んで考察する必要がある、という指摘があった。
            「王朝国家体制論」と「立荘論」との接合が必要である、という指摘がされた。
10月6日 高橋遼 72〜79・83・84 概要 72〜76・83・84 延久3年(1071) 72、73、84号文書は太政官から東大寺へ、74〜76、83号文書は太政官から美濃国司に対して送られた太政官牒の案文。前年に天喜4年の官宣旨によって認められた四至内は東大寺領であること・臨時雑役の免除が再認される。にも関わらず官物を無理矢理徴収し雑役を課してくる状況に対し、東大寺は朝廷に解状を提出し、その主張(国郡による東大寺領への介入を止めること)が認められたことを東大寺・国司双方に伝えたもの。
        77〜79 延久3年(1071) 74〜76、83号文書をうけて、国司がその内容を安八・厚見両郡司へ伝達したもの。
      考察   「延久の荘園整理令の理想と実態」 延久の荘園整理令は、寛徳2年(1045)以降に免判を得た田地の収公を目的としたものであったが、荘園領主の反発が各地で起き、その結果収公の対象は、寛徳2年以降に新規開発し免判を得た田地となった、と指摘。
      討論     延久の荘園整理令は一定の成果はあったものの、全て朝廷の狙い通りにいったものではない、という指摘があった。
            寛徳2年以降に免判を得ても、開発が寛徳2年以前であれば収公されない、という報告者の主張に対し、重要な指摘だが少し根拠が弱いのではないかという指摘があった。
            記録所に対し、荘園領主の公験だけでなく、国司側も公領であるなんらかの支証が必要でとされたのではないか、という指摘があった。
10月20日 土山祐之 80〜82、85〜87 概要 80〜82 延久3年(1071) 74〜76、83号文書をうけて出された美濃国司藤原隆経の請文。
        85〜87 延久4年(1072) 典薬寮が大井・茜部荘において草薬を勘責し、そのことを東大寺は奏状に認めて朝廷に訴え、その訴えが認められ、草薬の勘責を止めるよう美濃国に命じた官宣旨の案文。
      考察   「東大寺領荘園の推移」 多在した東大寺領荘園の中でも、なぜ黒田・玉瀧・大井・茜部荘が天喜年間に官宣旨を獲得し存続し続けたのかということを考察。東大寺別当に求められたことが堂舎修造と料所確保であり、それらにおける重要荘園であった4荘は東大寺側としても確保しなければならなかった荘園であった、と指摘。
      討論     「不注本免田数」の意は、@文書に本免田数を記さないA検注を行わない、どちらの意かということが議論となり、今後も検討が必要との指摘があった。
            延久の荘園整理令後における国司の動きについて言及する必要がある、という指摘があった。
            85〜87号文書は、東大寺対国司という構図ではなく東大寺対典薬寮という構図になり、又在地での争いが相論の中心になっていくことに対し、大井・茜部荘の相論が新たな段階に入ったのではないか、という指摘があった。
10月27日 稲垣伸一 88〜91 概要 88・89 延久4年(1072) 85〜87号文書をうけて出された美濃国司藤原隆経の請文。
        90・91 延久4年(1072) 88、89号文書を提出した後、美濃国から東大寺に出された現況を知らせる国牒の案文。国司は典薬寮による草薬の徴収を止めるよう命じたが、それを官使と寮使が聞き入れない旨を記したもの。
      考察   「延久年間前後における美濃国司・官使の対応の変化」 田地収公と臨時雑役賦課停止を命じた官宣旨に対し、延久年間以前の国司は請文をなかなか提出しないという方法で不満・抵抗感を示すが、延久年間以後になると明確に官宣旨を受け入れない姿勢を見せ始める。また、官使については、具体的な様子は不明確なものの次第に現地に対する影響力を強めていった、ということを指摘。
      討論     88、89号文書は正文が東大寺に渡され、案文が現地に下されたというように、文書の使い分けがされている、という指摘があった。
            90、91号文書にある「非国司進退」という文言は、荘園を突き放している感もあるのではないか。官と国衙と東大寺との関係性について言及する必要性があるのでは、という指摘があった。
11月10日 細田大樹 92〜96 概要 92〜94 承保2年(1075) 承保2年閏4月に出された荘園整理令を盾に、国司が四至の牓示を抜いて収公を図り臨時雑役を課してくる状況に対し、東大寺は8月に奏状を提出。その旨が認められ、国司藤原定房に対し田地の収公停止・押さえ取った雑物返却を命じたもの。
        95・96 承保2年(1075) 承保2年10月に東大寺から出された奏状に対して出された官宣旨。官使・国司・本寺司が立ち会って四至を確定し、押さえ取った雑物を返還することを命じたもの。
      考察   「承保三年十二月宣旨の意義」 後三条没後「延久」の例が重視されるようになるが、その上で最初に「延久」の例にならったものが承保3年の宣旨であり、承保年間は@国司・郡司を含めた四至確定作業A延久宣旨の重要支証文書化、という二点の意味を持たせた画期である、と指摘。
      討論     美濃国司であった藤原隆経と藤原定房とでは、荘園に対し対照的な姿勢が見られ、国司個人による荘園への影響も視野に入れる必要がある、という指摘があった。
            国司の収奪が止まないのは国司だけの問題ではなく、在庁官人の動きも関係しているのではないか、という指摘があった。
            大井荘が相論の中心となるのは、国衙からの距離も関係するのではないか、という指摘があった。
            官・国衙・寺の同意のもと四至が確定される、という事象はこの時期に出現することであり、一つの大きな画期ではないか、という指摘があった。
11月17日 青木拓巳 97〜104 概要 97〜99 承保3年(1076) 95、96号文書をうけて美濃国司藤原定房が留守所へ下した庁宣の案文。官使・寺使を現地に下すので、在庁官人と共に公験によりながら四至の堺に牓示を打ち、押し取った雑物を返還することを留守所に命令したもの。
        100・101 承保3年(1076) 95、96号文書をうけて美濃国司藤原定房から安八・厚見両郡司に下された国符。
        102〜104 承保3年(1076) 100、101文書をうけて安八郡司から出された庁宣請文。
      考察   「荘園整理令がもたらした官使の役割」 官使の役割には@官宣旨の実行の確認A現地の状況についての確認・報告B非法の停止があり、職務としてはA→@の順で行われる。Bは@に付随したもの。官使の役割は次第に重要となっていくが、官使そのものに権限があるわけではなく、その結果官使を務める個人の能力・性格が職務に影響した、ということを指摘。
      討論     報告者から、97〜99文書で国司が庁宣を下しているのは、国司制度の変貌というよりは国司の所在地が文書様式に影響しているのではないか、という指摘があった。
            在庁官人の力の増幅が、在京国司の発生と密接に関連しているのではないか、という指摘があった。
            100、101号文書が国符であるのに対し、102〜104号文書では庁宣請文となっているのは、国符に庁宣が付されており、その上で庁宣の方が重んじられたからではないか、という指摘があった。
            報告者から、官使には在庁官人と血縁関係を築き、その地に根をはり在庁官人化する者もいた、という指摘があった。
11月24日 熱田順 105〜109 概要 105・106 承暦3年(1079) 東大寺政所による大井荘別当職補任状。大中臣清則が補任される。
        107〜109 寛治元年(1087) 国司高階公俊が加納ありと称して大井・茜部荘に国検田使を入部させ、官使逓送役を賦課したことに対し、寛治元年7月東大寺が朝廷に解状を提出し訴える。その訴えが認められ、美濃国に対し延久宣旨にしたがって大井・茜部荘は免除することを命じた官宣旨の案文。
      考察   「一一世紀後期における東大寺領荘園の様相―支配体制の変容に注目して―」 大井・茜部荘をめぐる相論は、@四至をめぐる相論→A加納の有無をめぐる相論→B造伊勢大神宮役夫工代をめぐる相論→C荘司源国房(息光国)による違乱に対する相論、というように変遷していく。その上で、荘別当や下司を東大寺政所が補任することで、在地の動向を東大寺としても掌握しようとしていたのではないか、ということを指摘。さらに、在地社会の様相の複雑化に伴って、東大寺の支配体制がどのように変化したのかということに言及する必要性も提示。
      討論     大井荘の別当職と下司職との違いは何か、という疑問が提示された。
            報告者から、大井荘下司職は信清→長増→清則→則平→則綱→康則と相伝されていく、という指摘があった。
            別当職や下司職に補任される側は、どのような意図をもって補任されるのか、という疑問が提示された。
            この時期の補任状発給までの手続きには、当人同士における付嘱状(譲状)を現地から東大寺に進上し、それに基づいて東大寺が補任状を発給するという仕組みである、という指摘があった。
12月1日 大島創 110・111 概要 110 嘉保3年(1097) 美濃国司に対し官使入部や諸役賦課を停止し、延久3年の官符に従って四至を定めるよう命じた官宣旨の案文。美濃国司である源義綱と茜部荘司であった源国房との間における勢力争いが大井・茜部荘を舞台に繰り広げられている。
        111 嘉保3年(1097) 110号文書をうけ、美濃国司源義綱が留守所に下した庁宣の案文。官物徴収や雑物賦課の停止を命じるとともに、国使・郡司に図師を従え現地において元のように四至を定めることを命じている。
      考察   「一一世紀末における大井・茜部両荘周辺の武士団とその諸関係」 国司源義綱による武力を背景とした強引な寺領収公に対して、寺領を守るために東大寺は義綱の対抗勢力である国房を荘司に補任する。110号文書に記されている事象には、源氏の内訌やそれに付随する院権力と摂関家との関係性なども影響していたことを指摘。
      討論     110号文書にある「国制」とは何を意味するかという疑問が提示された。
            国司はこの時期においても「免除領田制」に基づいた主張をしている、という指摘があった。
            「前々司」という語彙は、「二代前の国司」という意味ではなく、「以前の国司」という意味である、という指摘があった。
            報告者から、110号文書において国司源義綱が荘司源国房の押妨を主張する一方で、東大寺が国司に反論し国房の押妨を主張しないという姿勢には、東大寺は義綱と国房との勢力争い・院と摂関家との暗闘を利用して両荘の支配を安定させようとした意図があったのではないか、という指摘がされた。
12月7日 久下沼譲 112〜117 概要 112 康和3年(1101) 東大寺政所による大井荘別当職補任状。大中臣清則が補任される。
        113・114 嘉承3年(1108) 嘉承2年(1107)に出された荘園整理に関わる宣旨によって国司と東大寺との間で荘園の停廃が問題に。東大寺側の主張が認められ、嘉承3年6月に四至・牓示の設定を命じる宣旨が下される。113・114号文書は、嘉承3年6月の宣旨の旨に従って大井荘の四至を定め牓示を打った旨を報告する安八郡司らの解状の案文。
        115〜117 天仁2年(1109) 康平4年(1061)の宣旨(47〜49号文書)に従い、大井・茜部荘に対する防河役を免除するよう美濃国に命じた官宣旨の案文。天仁2年には京都周辺で大雨が降っていることが確認でき、その影響で鴨川が決壊、修理に対しての防河役賦課が問題になったと推測される。なお、康平の事例は防河役の免除について直接的に言及しているもの。
      考察   「「公文預」に関する一考察」 平安期の史料に登場する「公文預」は、その多くが国・郡に所属する存在。その役割としては、「公文(=公文書)」を「預かる(=管理する)」役割を担う役を指す語として普遍的に用いられた可能性が高い語彙、という指摘。
      討論     報告者から、大中臣清則が一度補任されているにもかかわらず再度112号文書で補任された理由には、東大寺の別当交替に伴い改めて安堵のための補任状を要求・発給されたものではないか、という指摘があった。
            報告者は「公文預」→「公文」になる可能性を示唆したが、国・郡に所属する「公文預」がどのように荘園経営に関わっていくのか、という疑問が提示された。
            「預」とは、相伝の職にはならない職に付けられる言葉である、という指摘がされた。
12月15日 根岸直史 118〜121 概要 118〜120 天永3年(1112) 天永2年(1111)12月に東大寺から出された解状をうけて出された官宣旨の案文。造伊勢神宮役夫工米を免除することを認めたもの。
        121 永久3年(1115) 永久元年(1113)、大井荘内に乱入した役夫工使によって華厳・法華会に宛てる料物を徴収され、両会開催が困難になってしまうことを憂いた奏状を東大寺は朝廷に提出する。それをうけ、本免田分に関しては徴収した料物を返還すべきことを命じた官宣旨が永久2年(1114)3月に出される。この官宣旨をうけ造豊受宮使の大中臣輔清は、大井荘において徴収したのは使いの行動ではなく国司が行ったことという旨の陳状を提出する。それをうけ出された官宣旨が121文書(案文)である。121号文書では、本免田分については国司・輔清を現地に派遣し徴収した分を返還するように命じている。
      考察   「造伊勢神宮役夫工米と国司との関係について」 12世紀前半、財政が苦しくなった朝廷では役夫工米といった一国平均役が重要な財源になっていた。それの免除を求める寺社とでは激しいせめぎ合いが行われ、大井・茜部荘はせめぎ合いの上で役夫工米の免除が認められ、以後一円支配の強化が進行していくことを指摘。
      討論     118〜120号文書に記されている「殊被置造宮」は、同時期に朝廷に造東大寺官が設置されていることから、「殊被置造官」の間違いではないか、という指摘があった。
            報告者から、役夫工米の徴収には親戚関係にあった国司・造豊受宮使が協力して事にあたったのではないか、という指摘があった。
            なぜ一国平均役が賦課できるのか、「王土思想」の影響はどこまであるのか、などといった疑問が提示された。
12月22日 日向寺朋子 122〜125 概要 122・123 永久4年(1116) 121号文書をうけ美濃国司大中臣親定が陳状を提出し、その陳状をうけ出された鳥羽天皇宣旨の案。121号文書では、国司・造豊受宮使双方に対して押し取った料物を大井荘へ返還するよう命じていたが、本文書では、造豊受宮使に押し取った大井荘本免田分の地利物を返還するよう命じている。
        124・125 永久4年(1116) 122・123号文書をうけ造豊受宮使大中臣永信(輔清息)が奏状を提出する。124・125号文書は、奏状をうけ、大井荘で役夫工米として徴収した料物は返還し、美濃国未済分は国司の責任で別に徴収することを、国司に命じた官宣旨の案文。
      考察   「永久の役夫工代免除の背景」 役夫工代免除の背景には、白河院の戒師を務めた勝覚が当時東大寺別当であったこと、造東大寺長官藤原為隆は弟が白河院の近臣であり、自らも師通・忠実の家司であったことなどが影響していた、ということを指摘。
      討論     前回の報告に引き続き、一国平均役の問題は「王土思想」と絡めて考える必要性が指摘された。
1月19日 松本尚之 126・127 概要 126 永久5年(1117) 源光国(国房息)による茜部荘への押妨の停止を命じた鳥羽天皇宣旨の案文。茜部荘西堺の一部は光国の父国房によって鶉郷(国房・光国私領)に押し取られており、また光国や鶉郷住人らは茜部荘民に対して濫行していたことが本文書には記されている。
        127 元永元年(1118) 元永元年に東大寺別当に補任された仁和寺僧正ェ助の始任事始の注進状。作事事始の際に振る舞われる饗膳に付く膳別5升の料物を大井荘任料が宛てられる。
      考察   「史料にみえる四至牓示と一二六号文書の位置」 一般的に四至相論は臨時雑役賦課(免除)と関連しながら述べられているが、茜部荘と鶉郷との堺相論の場合、荘園領主と国司との相論というよりは、在地における違乱によって生じる四至相論であり、「武威」の存在が全面に押し出され、これまでの四至相論(荘園領主と国司)とは一線を画すものである、という指摘。
      討論     「私領」の存在やその形成過程についても言及する必要がある、という指摘があった。
            126号文書では四至牓示抜き取りと荘民逃散の二つの問題が記されているが、東大寺側の意識としては全体として繋がっている問題として扱っているのではないか、という指摘があった。
            「諍論」という語彙には、「相論」にはない武力的な意味も含まれているのではないか、という指摘があった。
            報告者から、127号文書に記されている「任料」は、大井荘下司職に補任した際に補任された側から支払われる「任料」を指す、という指摘があった。