2015年度 海老澤ゼミ「美濃国大井荘・茜部荘の研究」前期内容
月日 担当者 担当文書 内容
4月6日 白川 宗源         ガイダンス
4月13日 ゼミ参加者         ゼミ講読史料集の作成
4月20日 山口 啄実         卒論報告「南北朝期の陰陽道活動」
4月27日 ゼミ参加者         ゼミ講読史料集の作成
5月11日 白川 宗源 128〜136 概要 128 元永元年(1118)11月20日 大中臣氏を大井荘下司職に補任する一連の文書。永承・天喜年間に大中臣延清等によって大井荘の領域は拡大され、その後大中臣氏は別当職に補任される。128号は大中臣氏が下司職に補任された初見史料であるが、「譜代」「相伝」の職とされていることから、別当職が改称されたものであると考えられる。
        129 保安元年(1120)8月30日
        136 天治2年(1125)8月
        130 天治元年(1124)6月 茜部荘の西堺の牓示をめぐる相論の関係文書。永久5年(1117)8月、東大寺が茜部荘西隣鶉郷の非法停止を求めたことが発端。同年12月、東大寺の要求通りの鳥羽天皇宣旨が下される(126号)。しかし7年後の130号も同内容の宣旨であり、事態が収拾していなかったことが知られる。130号を受けて荘園別に出された官宣旨が131号であり、133号はその旨を美濃国留守所に伝達した国司庁宣。その結果、係争地の堺が定めなおされたが、その報告書が135号である。
        131・132 天治元年(1124)6月
        133・134 天治元年(1124)8月
        135 天治元年(1124)8月
      注目文書 128・129・136   先行研究において当該3通はいずれも政所下文と把握されているが、典型例ではなく変種として考察対象外となっている。そこで政所下文の典型例と比較すると、当該3通はいずれも差出が預所と考えられる人物の単独署判であることが特徴である。また当該3通はいずれも他寺系別当時のものである点も注目される。すなわち、当該3通は形式は預所下文であるが、他寺系別当の場合、預所下文は政所の意を受けて発給されるため、政所下文とみなしうると考えられる。
      討論     四至と牓示は別のものであり、通説では四至は東西南北の境、牓示はその間に打つ人工的目標物という理解だが、茜部荘ではその理解で整合的に説明できるのか、という質問があった。
            130号の文書名を検討する必要性が指摘された。
            128・129・136号の付箋はなぜ貼られているのかという質問があった。預所下文は、誰の意を奉じたものかが重要であるため、後世に別当の名前が付箋で貼られたとの回答があった。
            128号でわざわざ大井荘諸司・住人等に宛てられているのは、在地が荒れて収拾がつかなくなっていたからではないか、との指摘があった。
5月18日 赤松 秀亮 137〜139・144・150 概要 137 大治3年(1128)7月 大治3年時点の東大寺領を記した目録。本目録に記されたのは東大寺領荘園のすべてではなく、実態をともなっているものを記した可能性が指摘出来る。
        138 大治5年(1130)3月 三綱が作成した印蔵保管の東大寺領荘園の公験と絵図の目録。東大寺が作成した最初の文書目録。本目録に列記された荘園の傾向として、@係争中の荘園、Aすでに退転した荘園、B支配が安定せずに後日放棄される荘園に大別できる。
        139 保延2年(1136)7月 大井荘・茜部荘成立に関する文書五点と、それ以降に下された官符・宣旨案六点を送進した目録。別当定海の命で作成されたと推測される。
        144 久安3年(1147)4月 144号は別当寛信が文書を修復する為に東大寺から自坊勧修寺へ取り寄せた文書の目録。150号はその後東大寺に返送するにあたり、後々の備えの為に目録を作成したもの。久安3年、東大寺は朝廷に対して訴訟を起こしており、144号で重要文書が送進されているのは、朝廷への訴訟の文脈においてと理解される。これをきっかけに文書整理が進み、150号文書へと結実する。
        150 仁平3年(1153)4月
      注目文書 137・138   12世紀には封戸から脱却し、主たる財源が荘園となった。また久安3年の寛信別当就任から様々な動きがみられ、久安3年は東大寺領全体にとって一つの画期ど考えられるのではないか。当該期、荘園の見作田は増加しているが、封戸の形骸化や138号のように退転した例が散見されるように、美濃国荘園も安定していた訳ではない。初期荘園から中世荘園への転換が可能となった所領の維持と、退転している荘園の再編・復興が目指されていた。
      討論     138号に記載されている荘園を大別した場合、分類できない事例として春日荘がある、との意見が示された。
            「京下文書」を「京都に下し遣わした文書」か「京都より下された文書」と採るかで意見が分かれた。また「京」は奈良東大寺を指す場合があるとの指摘が出された。
            久安3年に荘園文書に目が向くようになった理由はなんなのか、茜部荘における久安3年の位置づけはどのようになっているのか、という指摘があった。また久安3年が画期というより、寛信の別当就任が画期と捉えた方が妥当ではないか、との意見が出された。
            東大寺文書全体を考える上で、他寺系別当の存在ゆえの文書の移動の多さ、移動距離の長さが挙げられる、との指摘があった。
            厳実・厳深の存在が東大寺領荘園の初期段階を解明していく上で重要ではないか、との指摘があった。
5月25日 日向寺 朋子 140〜143 概要 140 永治元年(1141)10月 東大寺が仁和寺大教院に宛てた牒状。茜部荘と仁和寺大教院領市橋荘内牧村の間で境相論が起こり、その停止を求めるもの。この1か月前にあたる9月29日に茜部荘から東大寺に解状が進上され、それを受けて発給されたと考えられる。これまで市橋荘との相論は確認されていないが、長年抱いてきた不満が原因のようである。
        141・142 永治元年(1141)12月 140号の1か月前に出された茜部荘解状を引用し、市橋荘住人等がそれに逐一反論した陳状。双方の言い分はかみ合わず、全く対立している様子がうかがえる。
        143 永治2年(1142)10月 茜部荘住人が四至に関して東大寺に訴えた解状。東西南北の境相論に裁定が下らなければ、所当の年貢は納めがたいと主張している。
      注目文書 140・141・142 永治元年(1141) 茜部荘と市橋荘の相論勃発の背景を考察。茜部荘は市橋荘の押領に悩まされながらも長年思い過してきたが、両荘の境である友河の洪水によって甚大な被害が出た結果、訴え出ることとなった。しかし保元2年(1157)にも茜部荘は市橋荘内内牧荘に押領されており、市橋荘に有利な状況は続いていたと想定される。
      論点     内牧庄(村、郷)と市橋荘の関係、及び東大寺或いは茜部荘との関係が明確でないとの指摘があった。
            牓示と牓所の違いについて質問があった。またどちらが境界を示す語句としてどちらがふさわしいか、という質問があった。
6月1日 山口 啄実 145〜149 概要 145 久安4年(1148)4月 久安元年、同2年、同3年の3度行われた検注によって判明した、茜部荘の見作田数と、所当の地子八丈絹の量が記された前半部と、公文宗時・荘官等の罪状を訴える後半部から成る。この時期の検注が茜部荘の田数基準となっており、名体制確立を示す文書である。
        146・147 久安5年(1149)3月 147号が華厳会時に楽人へ下す絹布のリストとして作成・注進され、それに対応して宴済が大井荘から送られてきた絹や布を送状として作成したのが146号である。
        148 仁平元年(1151)2月 両文書とも本来は華厳会の楽人に支給する禄物注文が存在し、それに対する送状であったと考えられる。
        149 仁平2年(1152)3月
      注目文書 146〜149   東大寺華厳会の大規模化と、荘園管理体制整備の関連性を考察。康和年間から久安年間の約50年間に華厳会が大規模化していることが確認されるが、その要因として大井荘・茜部荘の領域が確定したこと=収取体制の確立が想定される。さらに12世紀前半の南都諸宗において教学復興運動が活発化するが、華厳会は教学復興をアピールする絶好の機会として重要性が増していったと考えられる。
      論点     145号で引用された仁恵・厳実の取帳に記された得田や除田、斗代の計算が、取帳の記載通りの結果になるのかという質問があった。
            宗時の桑代結解の「見在桑准大百三十六本一寸〜」の意味について、特に税としての桑の単位等について質問があった。
            146号以降も主に記された絹や布、綾の量の計算が合っているか、また国絹と凡絹の違いなどが議論された。
6月8日 現地調査          6日(土)〜8日(月)にかけて、茜部荘・大井荘のゼネラルサーベイを実施。岐阜城より木曽三川を抱く濃尾平野全域を展望。河川氾濫の影響を強く受けるという茜部荘の性質がよく理解できた。大井荘については、名古屋大学の稲葉伸道氏の案内により四至・笠縫堤などを実踏して大井荘荘域を確認。その過程で、湧水が豊富という大井荘の特質や、先行研究の到達点・問題点を把握することが出来た。
6月22・29日 根岸 直史 158〜163 概要 158 仁安2年(1167)11月 承安元年(1171)の内宮、同3年の外宮遷宮の役夫工米賦課の免除を要求する為に、朝廷に進上した大井荘・茜部荘の重要文書についての注進状。
        159 嘉応元年(1169)6月 承安3年の伊勢神宮外宮遷宮の役夫工米賦課に関して、伊勢神宮から茜部荘に出された返抄。この返抄の二か月後に役夫工米免除の宣旨が出ている(160号)為が、この返抄により茜部荘が役夫工米賦課を免ぜられなかったことが知られる。本文書では八丈絹一疋=米三石であり、他の事例と比べて八丈絹は安価。茜部荘には米18石が賦課されているが、賦課比率は町別2斗強であり、大井荘よりも比率はかなり低い。
        160 嘉応元年(1169)8月 東大寺領美濃国大井・茜部両荘、伊賀国黒田・薦生・湯船・玉瀧等の荘園について、役夫工米の賦課を免除した宣旨。「雑事六箇条」のうち二箇条目の途中以降が後闕。167・170号の記述から、前記の荘園のほか、山城国・摂津国・丹波・越中についてそれぞれの国ごとに免除を認めた宣旨であったことがうかがえる。「一色不輸」とあるが、これは「一円不輸」すなわち一円寺領化の意味。
        161 承安5年(1175)5月 東大寺別当寛信が文書を修理・整理・分類して五つの唐櫃に収納。東大寺に返却するにあたって目録を作成(150号)。その後、新たにそれぞれの唐櫃について作成された文書目録が本文書。
        162 承安5年(1175)5月 東大寺別当顕恵が東大寺外に文書を持ち出したまま死去した為、東大寺三綱が朝廷に返納を要請したのが162号。それを受けて東大寺に返納された文書の目録が163号。163号より、顕恵が持ち出した文書が顕恵死後、蓮華王院に納められていたことが知られる。
        163 安元元年(1175)8月
      注目文書 162・163   顕恵期の東大寺の動向を検討し、顕恵の位置づけを明らかにした。先行研究では保元の荘園整理において、朝廷と東大寺の間で重要な役割を果たしていた人物として覚仁が注目されているが、顕恵も後白河・建春門院との深い関わりを活かして寺領一円不輸化に尽力。寺外にありながら東大寺との頻繁な人的交流が認められ、東大寺領荘園にとって重要な役割を果たしていたといえる。
      討論     159号について、禰宜と権禰宜は明確に区別すべきであり、権禰宜は在地に関係する人物である可能性があるので、「度会」=外宮と即断はできないとの指摘があった。
            返抄は年貢が納められる毎に発給されるので、返抄に記された年貢を年貢の総額と理解することはできないとの指摘があった。
      目録訂正 目録脱 (追加) 『平安遺文』3683号 承安5年(1175)4月26日「東大寺僧相慶奉書」を追加。
7月6日 久下沼 譲 164〜171・173・174 概要 164 寿永2年(1183)8月 藤原康平を大井荘下司職に補任する補任状。藤原康平はかつて大中臣氏を名乗っていたが、御家人となるにあたり改姓し、その後さらに名も康則と改めたものと考えられる。なお本文書は大井荘預所が史料上明確に確認できる初見史料。
        165 元暦元年(1184)5月 東大寺印蔵に返納された文書の目録。後闕の為全容は知ることが出来ないが、「武家押妨」に関する訴訟文書6通の中に黒田荘の文書とともに茜部荘の文書が含まれている。
        167・168 文治4年(1188)7月 印蔵から東大寺領荘園に対する役夫工免除に関わる文書を選出、進上した際の文書目録。役夫工免除の院宣獲得のために、免除の支証となる文書が別当雅宝の元に送られたと考えられる。
        169・170 文治4年(1188)7月 167・168号にみられる役夫工免除要求活動の結果、獲得された院宣。
        166 文治元年(1185)11月 それぞれ文治年間の文書取り出し、及びその返納に関わる文書。166・171号は東大寺印蔵から別当のもとへ進上された文書の目録。166号は厳密には本紙一紙に記された文治元年11月12日・文治2年7月28日・同年9月29日の文書取出日記と、礼紙の裏に記された文治3年3月28日・文治3年4月20日の文書取出日記の二種類の文書から成る。173号は166・171号で進上された文書の返却に関わる文書。
        171 文治4年(1188)9月
        173 建久2年(1191)3月
      注目文書 174 寿永2年(1183)9月29日 大井荘に対する直家の押領を停止し、下司職藤原康平に東大寺法華会供料を進納させるように命じた後白河法皇院宣と推測される。『岐阜県史』『鎌倉遺文』では建久2年と比定されるが、宛所の「前大僧正」は東大寺別当禎喜、差出の「大蔵卿」は高階泰経と考えられ、年次は寿永2年9月29日に比定できる。
      討論     165号の「進納」は返納と解釈して良いのか、新たに印蔵に納めることを「進納」という可能性はないか、という指摘があった。
      目録訂正 174 (日付) (建久2年)9月29日→(寿永2年)9月29日。目録も当該箇所に挿入する。
7月13日 似鳥 雄一 151〜157 概要 151 保元2年(1157)5月 大井荘・茜部荘の支証文書を、東大寺から朝廷に進上した際の目録。保元2年3月の荘園整理令に応じて、両荘の正当性を示すために東大寺から記録所に提出されたものと推測される。
        152 保元2年(1157)7月 大井荘・茜部荘の両荘について、「天喜4年官符」と提出し、天平勝宝8年の勅施入文および天徳4年の太政官牒と、延久3年の太政官符・官符との間で生じた四至の相違を説明するよう、朝廷より東大寺に求めたもの。
        153 保元2年(1157)8月 保元2年7月13日の宣旨に対する返答として、東大寺三綱の一人円尊が提出した請文。
        154 保元2年(1157)8月 153号と同様に、保元2年7月宣旨を受けて東大寺三綱から提出されたと推測される請文。茜部荘については四至の現状を報告し、大井荘については荘家に事情を聴取したのちに報告するとしている。
        155 保元2年(1157)9月 東大寺が朝廷に提出した大井荘・茜部荘の支証文書の目録。複数の異筆・追筆が混在する。
        156 保元3年(1158)4月 記録所の審理の結果、延久3年の太政官符に記された両荘の四至を正当と認め、その遵守を美濃国に命じた官宣旨。本文書により、両荘の四至をめぐる相論は一つの決着をみる。
        157 (保元3年)7月 東大寺別当寛暁から、奉者である威儀師俊縁の手を介して、156号の宣旨を送付するに際しての送状として、東南院恵珍に宛てられた御教書。
      注目文書 154 保元2年(1157)8月 東大寺は朝廷より大井荘の四至の相違について説明を求められた際、「召尋荘家、追可言上」と回答を保留したが、ここにみられる「荘家」に注目。史料上の事例を分類すると、かなり早い段階から@屋舎・建物、A荘園現地、B荘民というように抽象的・多義的に用いられてきたことが指摘出来る。加えて今日では研究概念としての「荘家」が交錯しており、明確な定義を示した上で使用する必要がある。
      討論     153号の解釈について、「天喜官符の正文と案文の比較」か「天喜官符と他の文書との比較」かで意見が分かれた。
      目録訂正 153 (文書名) 「東大寺請文案」→「東大寺請文」
7月20日 オンサクル・シラス 172・175〜180 概要 172 建久元年(1190)7月 文治4年5月16日・文治5年12月10日・建久元年7月日に「進納」した文書の目録。前闕の為詳細は不明だが、大井荘については、建久元年7月日に笠縫堤免除の院宣が「進納」されている。
        175 建久4年(1193)9月 建久4年9月14日・建久4年9月25日に取り出された文書の目録。前後闕の為詳細は不明だが、大井荘については、異筆部分に「大井庄 堤事 上座」とある。
        176・177 正治2年(1200)閏2月 大井荘堰堤役の免除を求めた、東大寺五師・三綱等の解状の土代。両通は後闕・前闕で、接続して一通の文書を成す。
        178・179・180 正治2年(1200)3月 178・179号は、176・177号にみられる堰堤役免除要求活動の結果、東大寺に発給された免除の院宣。180号は同日付の院宣副状。