| 2016年度 海老澤ゼミ「美濃国大井荘・茜部荘の研究」後期内容 | ||||||
| 月日 | 担当者 | 担当文書 | 内容 | |||
| 10月3日 | 白川宗源 | 292〜294・無10・296・298・301 | 概要 | 292 | 文永6年(1269)9月7日 | 茜部荘地頭代伊藤行村と預所賢舜の相論にまつわる関係文書と訴陳状。無10は伊藤行村の二答状であり、296号(賢舜の三問状)以前の発給となる。 |
| 293 | 文永6年(1269)9月24日 | |||||
| 無10 | ||||||
| 296 | 文永6年(1269)10月27日 | |||||
| 298 | 文永6年(1269)11月 | |||||
| 294 | 文永6年(1269)9月 | 惣寺に入るべき各種の供料が期限通り納められること、もし期限を過ぎた場合は五日間待ち、なお遅れた場合は「質人」の所職を没収し、寺帳から除くことなどが誓約された学侶による連署起請。 | ||||
| 討論 | 294号にみられる「質人」は雑掌から惣寺に出される人質と理解される。 | |||||
| 10月17日 | 山口啄実 | 306〜313 | 概要 | 307 | 文永7年(1270)閏9月11日 | 茜部荘地頭代伊藤行村と預所賢舜の相論関係文書。343号の紙背に記された六波羅探題御教書関係案文群13通のうちの末尾の3通。相論の際に正文の控えとして東大寺側が残したと考えられる。 |
| 311 | 文永8年(1271)2月21日 | |||||
| 312 | 文永8年(1271)3月10日 | |||||
| 313 | 文永8年(1271)11月15日 | 茜部荘における私合戦の一方の当事者である慶秀の田畠を下司が領掌することを認めたもの。これ以降、慶秀の田畠は石包名と一括されて相伝されることとなった。 | ||||
| 306 | 文永7年(1270)閏9月10日 | 地頭代は伊藤行村から菅原秀氏に改替し、秀氏は東大寺に忠誠を誓うとともに賢舜の訴えの停止を求め、行村の陳状案を送付した。賢舜個人の狼藉を指弾することで東大寺との対立を回避しようとする地頭側の意図が読み取れる。 | ||||
| 308 | 文永7年(1270)10月18日 | |||||
| 309 | 文永7年(1270)10月18日 | |||||
| 310 | 文永7年(1270)10月カ | |||||
| 考察 | 六波羅評定衆長井氏と茜部荘相論 | 先行研究では長井氏が相論に介入し、穏便な解決の為に働いていたとの指摘があるが、その具体相を考察。代官請負の為、茜部荘経営に地頭長井泰茂は直接関わっていないが、六波羅探題における長井氏の立場が地頭代側に有利に働いていたことは想定しうる。東大寺側は長井氏と六波羅奉行人の癒着を想定し、非難していた。さらに文永〜弘安期、長井氏が六波羅評定衆の筆頭としての地位を盤石にする一方、長井頼重が南都衆徒に訴えられて流罪に処されるなど、六波羅における長井氏の立場の変動(および東大寺―南都との関係の変動)が、茜部荘相論(たとえば地頭請に関する地頭代側の強硬な主張)に影響を与えたことが想定できる。 | ||||
| 目録訂正 | 310 | (日付) | 文永7年11月16日は東大寺に到着した日で、発給日ではない。文永7年10月カに変更。 | |||
| (目録追加) | 「覚英上洛訴訟日記」嘉暦2年(1327)7月14日条(東大寺宝珠院文書、『南都寺院文書の世界』勝山清次編 思文閣出版 2007年に翻刻あり) | |||||
| 10月24日 | 山口啄実 | 補足 | @慶秀名について ⇒実円が建治年間に質に出した。永仁年間には、慶秀名から絹・段米・袈裟段米・桑代が徴収されている。『新修大垣市史」には、永仁取帳で慶秀名が7町3段200歩〜11町9段70歩が伝えられており、坪付は林本郷を中心に広範囲に広がっているという。なお、『新修大垣市史』には別紙で慶秀名の分布図が存在する。 A菅原秀氏について ⇒大山喬平編 『中世裁許状の研究』には該当人物なし。ただし、『経俊卿記』建長8年(1256)4月29日条に、「長日如意輪法功」により「菅原秀氏」が右衛門尉に叙された、とする記述があり、あるいは同一人物か(それ以上の足跡は不明)。なお、六波羅探題に関する先行研究では、職員に菅原姓の人物が少なくとも1名はいたことも指摘されており、推測の域を出ないが、秀氏が六波羅探題の奉行人の関係者であった可能性にも言及した。いずれにしても、現時点では伊藤行村の後任として、一時的に茜部荘の地頭代を勤めた、という事実以上に確たることは言えない。 B新出史料について ⇒以前、担当範囲を調べる過程で、『南都寺院文書の世界』(勝山清次編 思文閣出版 2007年)で翻刻された「覚英上洛訴訟日記」(東大寺宝珠院文書所収、嘉暦年間の摂津長洲荘を巡る鴨社と東大寺の相論に関する史料)の7月14日条に「茜部荘地頭事」で神輿を飾り法花堂礼堂に据えた、との記述を見つけた。後日史料目録を確認したところ載っていなかった。嘉暦年間までゼミではまだ至っていないが、補足の場を借りて報告した。なお、「茜部荘地頭事」とは、六波羅評定衆家長井貞重の子息で茜部荘を惣領家長井道雄から預かった「勝深」による地頭請を停止せよと、惣寺が訴えたことを指すと考えられる。 |
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| 10月24日 | 土山祐之 | 314〜322・無11 | 概要 | 314 | 文永9年(1272)2月27日 | 文永8年分の茜部荘上村年貢代銭請文。上村はこの年の年貢を納めることが出来ず、また地頭代伴頼広が関東にいたため送文を作り直すことが出来なかった為、伊藤行村が納めたように4丈別1貫400文に換算して送ることを決めた。 |
| 315 | 文永9年(1272)10月3日 | 文永9年の年貢絹・綿の送進状。この年のみ、上村と下村にわけて提出されている。この点については、以下のように推察される。すなわち、文永9年以前まで茜部荘全体の年貢納入責任者であり、東大寺との相論主体であった伊藤行村は、度重なる不正からその役割を外されて下村代官になり、その結果、上村も独自に年貢納入を行なうこととなったのではないか。 | ||||
| 316 | 文永9年(1272)10月4日 | |||||
| 317 | 文永9年(1272)12月13日 | 茜部荘の知行をめぐる東大寺と地頭との相論に際し、鎌倉幕府から六波羅探題へ出された御教書。「陸奥左近大夫将監」は従来は北条時茂とされてきたが、北条義宗がふさわしいと考えられる。 | ||||
| 318 | 文永9年(1272)12月28日 | 大井荘楽田郷に関する文書。「楽田地頭」とあることから、楽田郷には地頭が存在し、その地頭重経法師による押領にあっていたことが分かる。楽田郷は別当の別相伝所領であるが、本文書では惣寺が訴訟を起こしている。 | ||||
| 319 | 文永9年(1272)12月28日 | |||||
| 320 | 文永9年(1272)12月28日 | |||||
| 321 | 文永11年(1274)2月 | 東大寺衆徒から実円(惟宗言光)に下された下司職宛行状。「前寺務」は従来は聖基とされてきたが、正しくは定済。 | ||||
| 322 | 文永12年(1275)5月28日 | 大井荘算用状。大井荘の算用状は本文書と274号のみ。 | ||||
| 注目文書 | 無11 | 年月日未詳 | 無11号は317・336号とともに巻子装となっているが、茜部荘関連文書かどうか疑わしい。そこで内容を詳細に確認すると、「頼広」は茜部荘地頭代伴頼広とは別人であり、さらに黒田荘関係文書であることが分かる。また年次については、寛喜3年(1231)〜貞永2年(1233)と推測できる。本文書は東大寺が黒田荘地頭の非法を訴えたことに対する地頭某頼広の陳状。 | |||
| 考察 | 無11号文書の比定と「但見苦事」 | 本文書において頼広が戒律を守らない僧侶を「見苦事」と非難していることに注目。当時の社会において、僧侶には戒律遵守が求められていた。しかし実際は僧侶による魚食は広く行われており、東大寺も戒律で禁じられているはずの魚や酒を黒田荘に求めていた。こういった寺院社会の実態が、叡尊らの戒律復興運動の前提といえる。 | ||||
| 目録訂正 | 316 | (所蔵者) | 筒井寛聖→筒井寛秀 | |||
| 317 | (文書群) | 美濃国古文書→美濃国茜部荘文書 | ||||
| 319・320 | (日付) | 318〜320号はいずれも同内容であるが、318号は28日、319・320号は26日となっている。いずれが正しいか判断しがたいが、「案」である318号を採用し、28日で統一する。 | ||||
| 320 | (文書名) | 「鎌倉将軍家消息写」→「関東御教書写」 | ||||
| 無11 | (備考追加) | 茜部荘関連文書ではないが、巻子装で茜部荘史料と一緒にまとめられているため、目録に残し、備考欄にその旨を記載する。文書名も「伴頼広」とするのは誤り。 | ||||
| (目録追加) | 寿永2年(1183)閏10月2日「東大寺五師等請文写」(宮内庁書陵部所蔵「諸文書部類」柳原本) 『三重県史 資料編 古代・中世 上』400号文書 | |||||
| 10月31日 | 日向寺 朋子 | 323〜329・無28・無29 | 概要 | 323 | 建治2年(1276)6月23日 | 東大寺別当道融に宛てた実円を大井荘下司職に補任するように命じた院宣。無28・29号は建治2年下司職補任に伴う文書の連券として323号の後ろに配されており、また325号の「院宣案三通」に該当すると考えられるので、建治2年と比定できる。 |
| 無28 | 建治2年(1276)7月29日 | |||||
| 無29 | 建治2年(1276)8月12日 | |||||
| 324 | 建治2年(1276)11月30日 | 324号は訴訟を取り次いだ造東大寺長官吉田経長が実円の補任を確認した旨を知らせる奉書。325号は別当道融政所から大井荘民等に宛てて発給された、実円を下司職に補任する下文。326号は別当道融が吉田経長に宛てた、実円の下司職補任を知らせる書状。325号は大井荘民に宛てられているが、実際は吉田経長のもとに送られたと考えられ、その返事が324号と考えられる。 | ||||
| 325 | 建治2年(1276)11月29日 | |||||
| 326 | 建治2年(1276)12月3日 | |||||
| 注目文書 | 327 | 建治2年(1276)12月25日 | 実円は下司職に補任されたが、訴訟費用が財産を逼迫したため、建治2年12月には下司職及び石包名、慶秀跡等を一阿弥陀仏に売却した。327号はその顛末を記した起請文形式の借状であり、328・329号は沽却の内容を記した売券。327号の内容を踏まえると、328・329号は下司職の売却を示すのではなく、借金が返済不能になった場合に効力を発揮するものであったといえる。 | |||
| 328 | 建治2年(1276)12月25日 | |||||
| 329 | 建治2年(1276)12月25日 | |||||
| 考察 | 建治2年における実円の下司職沽却の周辺 | 実円が下司職を担保に借金をしたことについて考察。328・329号は一般的な永代売りの売券と考えられるが、そこには「手継証文を添えて下司職及び名田畠等を売却する」と記している。また327号には「りせにきゅうせいをいたさすは」とあり、売券は「ただ書いただけ」と推察される。実円の質は文書質とみなしうる。このことは、売却した相手の一阿弥陀仏が京都近郊に住んでいた人物と考えられ、担保物件とは関わらない文書質の方がメリットが大きかったであろうことを想起させよう。 | ||||
| 討論 | 327号の「くよう」「へしん」については、「公用」「別進」と考えられ、「公用」は訴訟手続きにおいて公的に必要な費用、「別進」は訴訟を有利に進めるために裁判関係者に渡す費用と考えられる。 | |||||
| 先行研究では、売券が圧状や乞索状とされると売券の効力が否定される公家法を踏まえ、乞索と称して売買物や質物を取り戻そうとする行為が存在したことを説明する上で、327号を引用している。しかしそれ以外に起請文と売券がセットで作成された事例は見いだせず、327号は様式的にも内容的にも非常に珍しい文書であり、議論の際は注意が必要。 | ||||||
| 目録訂正 | 無28 | (日付) | 年未詳→建治2年 | |||
| 無29 | (日付) | 年未詳→建治2年 | ||||
| 324 | (文書名) | 造東大寺長官吉田経長家御教書→造東大寺長官吉田経長家奉書 | ||||
| 324・325 | (整序) | 324号にみられる「東大寺別当僧正御下文」が325号を指すことから、配列を入れ替えれる。文書番号は変更しない。 | ||||
| 10月31日 | 久下沼 譲 | 新見荘巡見の為のガイダンス報告 | ||||
| 11月7日 | 現地授業 | 新見荘巡見 | ||||
| 11月14日 | 村瀬大知 | 330〜337 | 概要 | 330 | 建治2年(1276)12月 | 東大寺衆徒が大井荘下司実円に対して発給した下文で、荘民を煩わせた公文観蓮の追放を命じたもの。大井荘の相論については、まず別当に訴え、それでもうまくいかない場合は惣寺に訴えて惣寺より別当に訴え、なおうまくいかない場合は聖断を仰ぐようにとの記述があり、注目される。 |
| 334 | 建治3年(1277)12月 | 実円が性円房に420貫文で下司職を売り渡す売券。実円は建治2年に一阿弥陀仏に対して下司職を担保に借金をして、訴訟を達成しているが、今回は二度目の売却。弘安2年には実円に替わって性円房が下司職に補任されており、実円が下司職に戻ることはなかった。 | ||||
| 335 | 建治3年(1277)12月 | |||||
| 336 | 弘安元年(1278)12月8日 | 文永年間に繰り広げられた茜部荘地頭請所相論は文永8年以来、裁許が出ていなかったが、本文書で決着がついた。ここまで延期された理由として、地頭長井氏の圧力、モンゴル襲来、北条一門の内部矛盾と六波羅探題の欠員などが指摘されている。なお裁許は明らかに地頭寄りであり東大寺学侶は翌年に越訴状を提出している。 | ||||
| 337 | 弘安元年(1278)12月8日 | |||||
| 注目文書 | 331 | 建治3年(1277)3月25日 | 建治2年12月に東大寺別当に就任した東南院主聖兼は、建治3年6月8日に実円を下司職に任命し、預所舜長房は大井荘荘官等にその旨を通達した。311号はその際の文書出納帳と考えられる。 | |||
| 332 | 建治3年(1277)6月8日 | |||||
| 333 | 建治3年(1277)6月8日 | |||||
| 考察 | 別当聖兼の文書出納について | 東大寺における文書管理は、別当永観・寛信等によって整備されてきており、美濃国は「第三唐櫃」に納められていた。聖兼が別当在任中の文書出納関係文書として、331・無12・347・無13・355号などがあるが、311号の題箋は別当聖兼の代であることを示しており、この時期には出納帳は年毎ではなく別当毎にまとめられていたのではないか。 | ||||
| 討論 | 311号の異筆部分は同筆の可能性があり、追筆とすべきではないか、との指摘があった。 | |||||
| 334号にみえる「御充文」は313号を指す。また「院宣」は323号、もしくは無28・29号、もしくは328号と334号の間に他の院宣が出ている可能性が想定される。 | ||||||
| 当該訴訟について、幕府は代銭納を認めて値を高く設定したが、東大寺はあくまで現物納にこだわる姿勢を見せている。 | ||||||
| 目録訂正 | (目録追加) | 『大日本古文書』家わけ第18、62号「文書出納日記」(断簡) | ||||
| 11月21日 | 森憧太郎 | 339〜343・無12 | 概要 | 341 | 弘安2年(1279)4月10日 | 341号は弘安2年に提出された越訴状を受けて六波羅探題が茜部荘地頭代伴頼広に上京・弁明を命じた御教書。頼広は六波羅に請文と陳状を提出し、5月14日には東大寺に届けられた。現物納を求める越訴状にたいして、頼広は見絹納入の困難さを主張し、越訴の停止を求めている。 |
| 342 | 弘安2年(1279)4月28日 | |||||
| 343 | 弘安2年(1279)4月 | |||||
| 無12 | 年月日未詳 | 弘安2年正月19日に茜部荘地頭請所の沙汰料に不審がある為、学侶の集会に「当庄文書一巻」が取り出され、すぐに返納された。これは同月の学侶による越訴状作成に際してのことと考えられる。 | ||||
| 注目文書 | 339 | 弘安2年(1279)(正月日) | 弘安元年12月8日付六波羅下知状(336・337号)に対して、東大寺学侶が六波羅に宛てた越訴状。339・340号は接続しても文意は自然であり、もとは一通の文書と考えられる。無12号の出納日時から推測するに、正月19日頃の作成と考えられる。内容は、地頭請所の停止については態度を軟化させ、もっぱら現物納とその納期が問題とされている。 | |||
| 340 | 弘安2年(1279)正月日 | |||||
| 考察 | 鎌倉幕府の越訴制について | 御成敗式目制定時の越訴の状況は不明であるが、文永元年に越訴奉行が任命されており、越訴方の新設が確認できる。越訴の手続きとしては、判決ののち「覆勘沙汰」(再審要求)に及ばなければ越訴方に案件が回され、当事者の越訴状の正統性が認められた場合、「内談」(寄合会議)で審議され、さら再審理が行われるというもの。 | ||||
| 目録訂正 | 339・340 | (接続) | 両文書はそのまま接続し一通の文書を成す。 | |||
| 343 | (日付) | 発給は「五月十四日」ではなく「四月日」が正しい。 | ||||
| 11月28日 | 伊藤綾子 | 338・344〜353 | 概要 | 350 | 弘安2年(1279)8月 | 実円は訴訟費用を捻出する為に下司職を性円房に420貫文で売却したが、その性円房を下司職に補任する東大寺別当聖兼政所の下文、および預所の副状。ただし350号には性円房が「重代」とされており、実円が前下司教円の養子となっていたこと、「円」という字が共通することなどを踏まえれば、性円は実円と養子縁組を結んでいたと考えられる。 |
| 351 | 弘安2年(1279)8月 | |||||
| 344 | 弘安2年(1279)5月20日 | 弘安2年の越訴について頼広は持病を理由になかなか参洛せず、東大寺は重ねて訴状を六波羅に提出し、六波羅はそれに基づいて召文を発給しようとしていた。そこに頼広より陳状が届いたので、六波羅は再度東大寺に申状の提出を催し(344号)、東大寺は346号の申状を提出。それを受けた六波羅は345号において二度目の召喚命令を発給した。 | ||||
| 345 | 弘安2年(1279)5月27日 | |||||
| 346 | 弘安2年(1279)5月 | |||||
| 338 | 弘安2年(1279)8月23日 | 弘安2年における相論の2度目、3度目の訴陳状。348号は土代であるため書かれた日付は不明だが、内容や349号端裏書「弘安二八廿一在寺申状案第三度」とあることから、正文は弘安2年8月21日に発給されたと考えられ、349号の二度目の地頭代陳状に対して出された三度目の申状と考えられ、349号は8月21日以前にかかれた重陳状である。348号の正文に副えるために23日に酒人内親王の施入状の案文が作成され(338号)、施入状を取り出した旨が347号の文書出納帳に記された。しかし352号において地頭代迎蓮(伴頼広)は酒人内親王施入状は証拠として不十分であることを指摘している。 | ||||
| 347 | 弘安2年(1279)8月23日 | |||||
| 348 | 弘安2年(1279)8月 | |||||
| 349 | 弘安2年(1279)8月 | |||||
| 352 | 弘安2年(1279)9月 | |||||
| 注目文書 | 353 | 弘安3年(1280)2月23日 | 越訴の訴陳に対する六波羅の下知状。現物納か代銭納か、またその納期についての裁決となっている。代銭納であることについての根拠が不十分であるので、現物納を命じ、また納期については年内とされた。越訴の結果、東大寺は有利な裁決を獲得したといえる。 | |||
| 考察 | 六波羅探題の訴訟制度の変質と茜部荘相論について | 茜部荘における文永から弘安にかけての相論は、六波羅探題において訴訟機関が整備されていく時期と重なる。そこで茜部荘相論から体制や法制度の変化の影響がみられるかを考察した。六波羅成立時には多くの訴訟が六波羅での準備手続きを終えたのち、関東に移管されて判決が下っているが、年月を経るにしたがって六波羅の裁判権は強化されていったことが指摘されている。六波羅での越訴については弘安7年に判決を関東に委ねている事例があるものの、茜部荘では弘安3年に六波羅が裁決を下しており、事案によっては六波羅が裁決を下すことが出来るまで裁判権は強化されていた。また六波羅における訴訟審理は口頭の対決による「問注記」型から、書面の応酬を基軸とする評定での審理という「評定事書」型へと移行する傾向にあり、茜部荘においても文永年間の相論の際は「対決」が重視されているが、弘安年間の相論では対決することなく訴陳状のみで裁許が下されている。文永の相論が長期化した一方、弘安の訴訟は一年足らずの決着となった背景には、六波羅の変質が影響していたといえる。 | ||||
| 討論 | 「以往状」について。請所以前だから認められないのか、平家以往状だから認められないのか、353号ではどちらが決定打か分からないとの指摘があった。それに対し報告者より、『鎌倉遺文』では平家以往の為に効力が否定されている場合と、平家以往ではないが、なぜ以往状であるかを明記した場合に分かれ、茜部荘の事例のように以往状であることのみを記した例は他になく、判断は難しいとの回答があった。 | |||||
| 目録訂正 | 345・346 | (整序) | 発給順に従い、346・345の順番に入れ替える。 | |||
| 348 | (日付) | 本文書は土代であるが、正文は弘安2年8月21日に発給されたと考えられるので、便宜上本文書の日付も同様に考えておく。 | ||||
| 349 | (日付) | 348号は349号に対する申状なので、発給は弘安2年8月21日以前となる。 | ||||
| 338 | (整序) | 338号と347号は一連の関係文書なので、弘安2年8月23日のところに並べて配置する。 | ||||
| 12月5日 | 山田仁生 | 354〜368 | 概要 | 365 | 弘安4年(1281)7月 | 東大寺別当道宝政所が性円を下司職に補任し、預所順専が大井荘荘家に性円の下司職補任についての副状を下した。その3か月後には道宝に代わって別当になった勝信が性円の下司職補任状を発給し、預所順専が副状を出している。これらは別当交替に伴う下司職補任と考えられる。 |
| 366 | 弘安4年(1281)7月 | |||||
| 367 | 弘安4年(1281)10月 | |||||
| 368 | 弘安4年(1281)10月 | |||||
| 354 | 弘安3年(1280)4月 | 茜部荘の宿願として、東大寺大仏殿において「同音心経一万巻」の転読を行なうことを定めた請定の案文。 | ||||
| 355 | 弘安3年(1280)5月22日 | 地頭代沙弥迎蓮と雑掌慶舜の年貢絹綿の両分に関する相論の和与状と、和与を受けて出された迎蓮の請文。弘安元年の裁許を不服とした東大寺の越訴により、弘安3年には年貢を現物納とする裁許が下った。その結果、新たな論点として「両分」すなわち絹四丈の重さの規定が問題となった。結局四丈別4両3分が蔵人所斤で計量されることとなった。その後も迎蓮は和与状の内容に不備があるとして和与状の書き換えを要求したが、認められなかったと考えられる。 | ||||
| 356 | 弘安3年(1280)12月14日 | |||||
| 357 | 弘安3年(1280)12月14日 | |||||
| 358 | 弘安3年(1280)12月15日 | |||||
| 359 | 弘安3年(1280)12月15日 | |||||
| 360 | 弘安3年(1280)12月23日 | |||||
| 361 | 弘安3年カ | |||||
| 362 | 弘安4年(1281)2月23日 | 弘安3年になされた迎蓮と慶舜の和与について、それを承認した六波羅下知状。また353号では年貢絹両分について裁決がなされなかった為、改めて裁許を求めた申状の土代が364号。したがって364号の申状を受けて362(363)号が発給されたと考えられる。 | ||||
| 363 | 弘安4年(1281)2月23日 | |||||
| 364 | 弘安4年(1281)2月 | |||||
| 考察 | 弘安三年の和与における「口入」とその後 | 茜部荘相論は弘安3年に和与が成立するものの、その後も地頭代は和与に背く姿勢を見せる。その背景にあったと思われる和与成立過程における「口入」について考察。364号からは、和与成立過程において長井因幡守頼重による「口入」が働いていたことが分かる。この口入については、裁判において一方の当事者に肩入れする場合は不法とされるが、紛争解決人として相論の仲裁のために介入する場合があった。茜部荘相論における長井頼重は地頭代と預所の仲立ちとして口入を行なっており、「中人」的調停者といえる。和与成立後も地頭代の不法は続き、永仁年間には東大寺から訴訟が起こされるが、このように地頭代が和与成立後も強い姿勢で東大寺にのぞむことが出来た背景には、地頭代にとって有利にはたらく立場であった長井氏が、より直接的な形で相論の場に現れたことが想定される。 | ||||
| 討論 | 「同音心経」とは具体的にどういうものであったのかについて質問があった。具体相は不明ながら、恒例法会ではなく臨時のもので、長引く地頭代との相論や年貢絹綿の現物確保のための祈祷法会と考えられるとの回答があった。 | |||||
| 長井頼重は明らかに地頭代側の人物であり、中世後期にみられるような「中人」的調停者たりえるか、という質問があった。これに対し、鎌倉期の相論と紛争解決についての先行研究をふまえれば、和与の勧奨を行なっているという点に限れば「中人」的存在であり、むしろ長井頼重のような人物でも鎌倉期の和与成立過程において調停者となり得たと考えられるとの回答があった。 | ||||||
| 目録訂正 | 362・363・364 | (整序) | 発給順に従い364・362・363の順番に変更。 | |||
| 12月12日 | 赤松秀亮 | 369・370・374〜377・390・391・無39 | 概要 | 369 | 弘安6年(1283)11月8日 | 東大寺別当勝信による大中臣観音丸(則宗)の下司職補任状。大中臣則親・則成親子が私合戦の末、流罪に処され、大井荘のおける立場を失い、その間の大井荘下司職は平明友‐教円‐実円‐性円と継承されてきたが、則成の子である観音丸が大井荘に戻り、下司職を獲得した。 |
| 374 | 正応2年(1289)6月 | 東大寺僧隆実の大井荘下司職就任に関する史料。374・375号は東大寺惣寺による隆実の下司職補任状案。惣寺は隆実を下司職に補任するか衆議し、五か条の条件を提示した。376号は東大寺別当聖忠による隆実の下司職補任状。寺務三度に渡って隆実が下司職と預所職を兼ねていることを理由に、惣寺と同様に下司職に補任した。377号は隆実が惣寺に宛てた請文。375号で示された五か条に加えて、下司職を隆実の子孫のなかの東大寺僧に相伝する旨が記される。 | ||||
| 375 | 正応2年(1289)6月 | |||||
| 376 | 正応2年(1289)6月 | |||||
| 377 | 正応2年(1289)6月 | |||||
| 注目文書 | 370 | 弘安11年(1288)3月 | 大井荘内榎戸郷の百姓らが提出した申状。370号は弘安10年の損亡が例年よりも大きく、年貢と秋畠の収穫からの貢納について、惣荘や楽田郷・高橋郷に准じて三分の一を免除するよう求めている。390号では、田畠の損亡について検見を求めたところ、早田のみで中晩田については行われなかった為、検見を求める内容。391号は御使末弘を改めて公正な御使の派遣を求めたところ、新たな召使のうちの一人が過酷な支配を行なった為、さらに新たな使いを求めるもの。無39号は御使末弘の解任を求める内容で、390号と391号の間に入ると思われる。 | |||
| 390 | 永仁元年(1293)8月 | |||||
| 391 | 永仁元年(1293)10月 | |||||
| 無39 | 年月日未詳 | |||||
| 考察 | 大井荘内榎戸郷の位置 | 大井荘内には高橋郷・楽田郷・榎戸郷が寺務別相伝として存在したが、関連史料に恵まれず、その内実に迫った研究はない。特に榎戸郷についてはその所在すら詳らかではない。先行研究では大垣市榎戸町と大垣市江崎町の二説があるが、いずれも決め手に欠く。榎戸郷は弘長2年〜文永4年の間に寺務得分から惣寺の支配となり、今回の御使交替要求となる。関係史料の検討から榎戸郷は三塚や今宿と地理的に近接していた可能性があり、小さく見積もって荘域内の在田‐アワラ線周辺=藤江南部・江崎北部と考えられる。榎戸(エト)が「江戸」「津」などの水と関係の深い言葉の転化と考えれば、水害の深刻な地域であることが想定される。また荘内に散見する「戸」地名が三条四里を北限とすることから、検注帳で「残榎戸」とされる三条三里・四里は榎戸と考えられる。 | ||||
| 討論 | 376号の別当政所の下司職補任状の差出は、従来は院別当や別当となっているはずだが、なぜ執行となっているのかとの質問があった。 | |||||
| 無39号に「中に入りて」とあるが、これは後期山田報告の考察にあった中人とは見なせないのかとの質問があった。 | ||||||
| 392号は、388号と関連するとすれば、「[ ]元年」ではなく「[ ]六年」ではないのか。 | ||||||
| 目録訂正 | 無39 | (日付) | 永仁元年8月から10月の間の作成と考えられ。390号と391号の間に配列する。 | |||
| (目録追加) | 『鎌倉遺文』20308号 正安元年11月日「東大寺年中行事用途帳」 | |||||
| 12月19日 | 永沼菜未 | 371〜373・378〜380・384・386 | 概要 | 373 | 正応2年(1289)2月25日 | 年預五師が年預櫃に保管した文書を次期年預五師に引き継ぐ際に作成される勘渡状。本ゼミにおいて東大寺年預五師が作成した勘渡状は初出。年次の新しいものが奥にくるように貼り継がれ、年預五師と彼らを代表と戴く惣寺集団が主体的に関わった出来事の関連文書を書きだした文書。追加された文書の多くには次年の勘渡時に申し送り文言が付与される。東大寺の文書は印蔵に保管されており、出納の際は三綱と五師が立ち会って出納日記が作成されるが、裁判関係文書は「文箱」に一時的に保管されるほか、朱櫃や東南院経蔵なども確認できる。従来のゼミ講読範囲では印蔵からの出納が中心であったが、鎌倉後期に対モンゴル戦争の祈祷への見返りとして寺院復興運動が盛り上がりをみせ、寺領関係史料を整理する機運が高まっていた。さらに正応年間までに寺内勢力の主体性が確立され、寺僧集団全体の運営記録の保管を意図して勘渡帳が作成された。 |
| 378 | 正応3年(1290)2月25日 | |||||
| 380 | 正応4年(1291)2月25日 | |||||
| 384 | 正応5年(1292)2月25日 | |||||
| 386 | 正応6年(1293)2月25日 | |||||
| 注目文書 | 371 | 正応元年(1288)11月 | 371号は造内外宮料伊賀国催神部が伊勢神宮に提出した、東大寺が寺領に賦課された役夫工米を納めないことについての申状。379号は迎蓮が茜部荘納所へ出した書状で、役夫工米免除の院宣を取得するように求めている。 | |||
| 372 | 正応元年(1288)11月 | |||||
| 379 | (正応3年カ)8月晦日 | |||||
| 考察 | 弘安〜正応期の役夫工米賦課 | 20年に一度の周期から、内宮は弘安8年、外宮は同10年が遷宮の年であり、役夫工徴収・免除関係文書は弘安4年〜正応年中の期間で確認できる。そのうちの多くが大寺社の免除申請や役夫工徴収を行なう神宮使との相論文書である。役夫工米賦課および免除に関する法理は時代ごとに変化しているが、弘安〜正応期は関係史料がもっとも集中しており、賦課方法などを知ることができる。金剛峰寺領備後国大田荘でも茜部荘と同様に神部が多勢を率いて譴責を行なっており、この時期には多くの荘園で役夫工米賦課をめぐって問題が起きていた。在地の状況に合わせて徴収の効率化を図る反面、過剰な譴責が衝突を招いた実態が読み取れる。また東大寺は厳しい徴収に対して別当と惣寺がともに対処にあたっていた。 | ||||
| 討論 | 379号「大使」は段銭徴収にあたる国衙役人であるが、役夫工米徴収においては大使は各国に置かれ、神宮権禰宜が務めるケースが少なくないが、室町後期関東分国では大社社僧が任命されることもあった。現地での実際の徴収は「催使」「催神部」「神符使」「大使」が行っていた。大使は造伊勢神宮所の下知を受けて神部を監督し、円滑な徴収が行えない場合は示威行動により徴収を促した。371号は鎌倉期伊勢神宮による役夫工米徴収の実態を示す数少ない史料のうちの1つである。 379号に登場する迎蓮知行分の所領について、茜部荘地頭長井氏の関与がみられないことに注目した議論がおこなわれた。複数荘園の預所をつとめる僧がいるように、地頭代迎蓮も、長井氏被官ではない可能性が提示され、今後の課題として、地頭代すなわち長井氏被官と決めず、より広い可能性を探る必要性が示された。 |
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| 1月16日 | 似鳥雄一 | 研究報告 「越前国牛原荘の研究と朝河貫一」 | ||||
| 1月23日 | 白川宗源 | 総括 | ||||