1998年度 日本史学演習(海老澤衷先生ゼミ) 活動記録


1998年5月10日の新入生歓迎合宿

年間の演習テーマ:荘園公領制の研究―紀伊国荘園関係史料の分析―

 紀伊国隅田荘関係史料の輪読
 前年度の鞆淵荘関係史料の輪読に一区切りつけ、隅田荘関係史料を集めた史料集を作成し、隅田荘関係文書を輪読した。年度の初めに史料集作成の作業を行ったため、やや輪読を開始するのが遅れたが、計17回の輪読で、いくつかの成果を出すことができた。

T.各回の担当者とテーマ

(1998年)
第0回(4月13日/松澤) 紀伊国隅田荘関係史料輪読にあたって―研究史概観―
第1回(5月25日/松澤) 石清水八幡宮領紀伊国隅田荘の成立
第2回(6月8日/清水克)石清水八幡宮領隅田荘と密厳院領相賀荘の相論
第3回(6月15日/山内) 鎌倉期における隅田氏の動向(1)
第4回(6月22日/高橋) 鎌倉期における隅田氏の動向(2)
第5回(6月29日/宮崎) 鎌倉期における隅田氏の動向(3)
第6回(7月6日/徳永) 隅田八幡宮朝拝頭人差定・放生会頭人差定について
第7回(9月21日/高橋) 高野山領隅田南荘における分田支配
第8回(9月28日/山内) 隅田一族連署状を読む
第9回(10月5日/村井) 隅田南荘下司上田氏の動向
第10回(10月12日/黒田) 政所一族の隅田荘進出(1)
第11回(10月19日/黒田) 政所一族の隅田荘進出(2)
第12回(11月2日/徳永) 隅田八幡宮座次相論(1)
第14回(11月16日/清水亮)隅田八幡宮座次相論(3)
第15回(11月30日/清水克)永享二年の在地動向
第16回(12月7日/高木) 隅田八幡宮社僧離散事件
(1999年)
第17回(1月11日/松澤) 上田入道淨願の訴え
第18回(1月18日/松澤) 年間総括

U.主な成果など

1.隅田荘と相賀荘との相論がもった歴史的意味について(第2回)
この相論は、神人支配を梃子とした荘園支配(石清水八幡宮領隅田荘)と、領域的な支配権にもとづく荘園支配(密厳院領相賀荘)の相克であった。手痛い敗訴の中から学習した隅田荘は、時代に対応した一円領域型荘園へと脱皮していったのではないかとした。前年度輪読の石清水八幡宮領鞆淵荘の神護寺領真国荘への侵攻においても、領域的な支配権に対して人的な支配権でもって介入しようとした鞆淵荘が敗れ去っていたことが想起された。

2.隅田・葛原諸系図の検討(第4回)
隅田家文書・葛原家文書のなかに残された系図をもとに、疑問点の多い鎌倉期隅田氏の系譜関係を整理した。
@これらの諸系図は、鎌倉末に滅亡した惣領家のものではなく、すべて葛原家のものであるとした。
A史料上にあらわれる名前を系図とあわせて検討すると、能村−重能(西信)−会願−忠能という関係、また信能(弘願)は会願の兄弟にあたることが想定できる。

3.「朝拝頭人差定」「放生会頭人差定」についての分析(第6回・第11回)
@朝拝頭人差定は応永22年「大札を削る」という行為に際して「大草子」から書写されたものが、隅田・葛原・上田の三氏に分割されて伝来した。
A放生会頭人差定にみえる名前の分析から、隅田八幡宮における放生会には、鎌倉期において隅田一族がその執行に深く関わっていたものと考えられる。
B隅田八幡宮放生会の頭役と執行システムについて
a「怜人頭」・「舞童」・「流鏑馬」を分担する南荘・中筋分と「御酒頭」・「楽頭」を分担する北荘分とが相互補完的であること。
b「饗頭四人」とは、南荘・中筋分の一人と北荘分の三人を合わせたものであったと推測できること。
→現存する九通の放生会頭人差定は、南荘・中筋分の差定群と北荘分の差定群に分類することができ、隅田八幡宮の放生会に際して「差定」は二通作成され、両分の因習的に定められた頭役に基づいてそれぞれの頭人が共同で執行にあたったものと考えられる。

4.隅田一族と政所一族
・中筋の開発をめぐって(第10回)
鎌倉中期以降に始まる隅田南荘・中筋(紀ノ川流域の氾濫原・不安定耕地)の開発は、政所一族の進出、それにともなう隅田一族の在地領主連合の形成・再編を促す役割を果たした。
・隅田八幡宮座次相論をめぐって(第12回・第13回・第14回)
応永年間の隅田八幡宮座次相論は、政所一族の高坊氏が丁座における葛原氏の権限を奪取しようとして仕掛けた相論であった。その相論の過程で問題になった論点については、レジュメNo.57〜59にてまとめられている。
・上田氏・葛原氏・小西氏について(第14回)
隅田一族の氏寺利生護国寺の近傍に所領を持ち、隅田南・北両荘の下司職を保持した上田氏が、隅田氏の嫡流であった可能性がある。南北朝・室町初期には、北荘内に本拠をもった庶子家(葛原・小西)の分立によって、上田氏の北荘に関する統制力は失われつつあり、そのなかで、葛原忠満が高坊との座次相論に勝った応永年間に台頭してくる。

5.隅田南荘下司上田氏と高野山(第7回・第9回・第17回)
高野山の分田目録をもととした支配と下司に補任された上田氏の在地領主としての経営は、隅田南荘が高野山領となった当初から問題をはらんでいた。年貢の未進が続いた結果、高野山は直務と代官請の間で揺れ動く。一方で守護勢力を背景に自らの権益を保全しようとした上田氏であったが、永享の「高野動乱」に際して高野山の学侶方と守護が手を結んだことにより、そのもくろみは潰えてしまう。結局、永享11年に寺命に従う旨の請文を提出させられて決着をみるのである。

V.ゼミ合宿・行事の記録

1998年
5/ 9〜5/10  新入生歓迎合宿(会津若松市 民宿「多賀来」)
5/27〜6/ 2  第八回鞆淵荘地域現地調査
7/22〜7/26  第九回鞆淵荘地域現地調査 大善寺大般若経調査・粉河祭
(8/26〜8/29 中世史サマーセミナー(宇佐)へ参加)
8月末    夏季報告会(軽井沢追分セミナーハウス)
1999年
3/23〜3/24  春季報告会(文学部第7会議室)
3/27〜3/31  第十回鞆淵荘地域現地調査 最終調査

 1996年から続けてきた鞆淵荘の調査が、この年度をもって終了した節目の年であり、再調査・補充調査等で合宿を組むことがとても多く、前期中はほぼ一月に一度のペースで、皆でどこかへ出かけていた。また、この夏には、中世史サマーセミナーが宇佐で行われ、ミニシンポ「荘園村落遺跡調査と歴史学―国東半島の調査の意義」では海老澤先生の報告もあり、ゼミからも多くの人数が参加した。
 セミナー終了後にもう一泊して、海老澤先生のご案内で香々地荘など国東半島を見学したことをよく覚えている。
                                               (ゼミ幹事 松澤 徹)

【海老澤のコメント】
 田染荘の保存問題で大変な年であった。豊後高田市の小崎地区の人たちが圃場整備実施を考え、史跡策定地区からの解除を市教委に求めたのが1997年4月のことであった。飯沼賢司氏が中心となり、「田染小崎地区の圃場整備からの除外と荘園遺跡の国指定を求める歴史研究者の声明」をまとめ、98年8月25日小崎地区の区長にこれを手渡した。私も行動を共にする。この日、午後1時半から豊後高田市で史跡指定検討委員会が開催された。夕方に及ぶ長い会議であったが、結論には達しなかったと記憶している。翌日からサマーセミナーが開かれ、28日には現地見学会で小崎の地を訪れた。夕日岩屋から眺めたときには、「もうこれが見納めだ」と思い、目頭が熱くなった。
 楽しい思い出−5月31日、鞆淵荘調査を終えて宿で夕食をとった後、再び鞆淵八幡社付近に出かける。評判となっていた蛍を見物するためである。八幡橋で、蛍の乱舞・群舞に遭遇することができた。幼い頃の記憶では、蛍は孤独に一線を描くものというイメージがあったが、それとはまったく違うものであった。

 


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