「とよあしはらみずほのくに」再考

集落・儀礼・水田の復原研究−対馬とバリ島−

21世紀COEプログラムの水稲文化研究所5ヶ年計画


「とよあしはらみずほのくに」再考


バリ島ジャテルイの棚田

学内で水田農耕を実践的に研究している先生方に集まっていただき、プロジェクト研究所として水稲文化研究所を立ち上げてから3年半の月日が経過した。幸いにも、科学研究費を得ることができ、また、21世紀COEプログラムの支援も得て、この共同研究も実りの時期を迎えつつある。最近、科学研究費の報告書『東アジアにおける水田形成および水稲文化の研究(日本を中心として)』(A4判、282頁)を刊行することができた。これは、棚田農耕で著名なバリ島と日本の対馬の比較研究をおこなったもので、両者を比較してあらためて明らかとなったことは、バリ島は山がちの地勢ではあるが、水田農耕に適した特性を有しており、それに反して対馬に象徴的に示される日本の地勢は水田農耕に適した地勢ではなかったということである。その理由をあげれば、先ず第一に、一年のうちで稲の育成期間が限定されており、その期間においても必要な日照時間が得られない場合があること。第二には雨期が短く、用水の供給が不安定なこと。第三には収穫期に臨んで台風の来襲があり、破壊的な風水害に見舞われること。この三点は、バリ島(台風の来襲が無く、稲の二年五期作も可能)にはない日本の宿命的な自然条件であり、このことから出発して日本の水田耕作、水稲文化も考える必要がある。

●美称としての豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)
 日本は古来から「豊葦原瑞穂国」と呼ばれてきた。意味するところは、「水生植物である葦が生い茂って、みずみずしい稲の穂がみのっている国」であり、日本国の美称であるとともに、日本列島の状況を示すものと観念されてきた。しかし、石垣を積まずに造成された彫刻のようなバリ島の棚田を眺めているうちにこの「豊葦原瑞穂国」は一つの虚構に思えてきたのである。藤木久志氏の作成されたデータベース「増補:日本中世における日損・水損・風損・虫損・飢饉・疫病に関する情報<9〜17世紀>」(科研報告書『日本中世における民衆の戦争と平和』(研究代表者:外園豊基、2003年)によれば、777年から1699年までに史料上で延べ13298回に及ぶ災害が記録されている。それらの多くは干害と風水害で、水田農耕を中心とする生業が著しく妨げられる状況が示されている。このような環境を考えれば、記紀編纂の時代から称されてきた「豊葦原瑞穂国」は決して日本の風土そのものを指すものではなく、すぐれて思想・宗教的かつ政策的な語彙であったことがわかる。対馬豆酘における赤米の神事は、赤米の籾俵自体を神として崇めるものであるが、稲に対する究極的な信仰であり、以上のような日本の風土の象徴であるといえよう。対馬は中世から近世にかけて朝鮮半島から多量の米を輸入しており、日本の中でも稲作に恵まれないところであったが、これこそ日本列島の問題点の一側面を象徴的に示すものであるといえる。

●条里制水田・溜め池・石積み棚田
 古代における国家政策のレベルでは、中国で形成された普遍文明を「律令体制」という形で受け入れたが、ここに日本の地域的風土が色濃く反映していたと考えられる。7世紀から8世紀にかけて国家を総動員する政策となった班田収授は、水田社会への希求と渇仰がもたらしたものであり、古代から中世にかけての条里制水田の展開もこの視点から捉えるべきものであろう。大化前代における天皇の統治が灌漑池の造築とともに語られ、奈良時代における僧侶の活動にも灌漑施設の整備が上げられ、さらに大寺院による古代荘園の開発・経営もこのような日本の地域的特性を抜きにしては語ることができない問題である。また、中世から近世にかけて造成された石積みの棚田は、そこに偲ばれる農民の労苦と景観の美しさから日本のピラミッドと呼ぶ人もあり、壮大な文化遺産ともいえるものであるが、その基底にあるのは自然条件の悪さであった。バリ島では自然の恵みを象徴する巨大なカルデラ湖を水源として、通常溜め池は造成されず、用水路が極度に発達している点に特徴がある。


  「豊葦原瑞穂国」にしたいという日本人の強い願望が、自然に働きかけるさまざまな知恵と工夫を生み出したといえよう。

〈Asahi.com早稲田大学今週のオピニオン(海老澤衷)原稿〉


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