2007年度海老澤ゼミ「山城国上桂荘の研究」
4月9日 下村シモムラシュウ太郎タロウ ガイダンス        
    *テキスト 昨年サクネン上島ウエシマユウヘン山城ヤマシロクニカミカツラショウ史料シリョウ 上巻ジョウカン』の「文書モンジョ」を最初サイショからハジ南北朝ナンボクチョウ初期ショキまでススめた。本年ホンネンカミカツラショウ研究ケンキュウ一区切ヒトクギりをけるために、南北朝ナンボクチョウから戦国センゴクシュ対象タイショウとする。そこで、テキストを、南北朝ナンボクチョウから戦国センゴク引付ヒキツケ記事キジなどを収録シュウロクする『山城ヤマシロクニカミカツラショウ史料シリョウ 下巻ゲカン』の「記録キロク」をテキストとする。なお、そのホカドウ史料シリョウシュウウエチュウ下巻ゲカン収録シュウロクされている「文書モンジョ」や、ドウ史料シリョウシュウ未収録ミシュウロク関連カンレン史料シリョウについては適宜テキギ報告者ホウコクシャ報告ホウコクナカげる。
    *ススカタ 毎回マイカイ、報告者は割り当てられた担当範囲について、校訂→内容説明→注目記事試訳・語釈→考察、の順に報告する。校訂コウテイ写真シャシンチョウ東寺トウジ百合ヒャクゴウ文書モンジョ」によりオコナう。内容ナイヨウ説明セツメイは、全般に簡潔にまとめ、ゼミで出た課題に関わるもの、研究史・学説史や学界の研究動向上問題となるもの、自分の問題関心にひっかかるものを中心に説明する。考察では、報告者の裁量の幅を広く担当タントウした範囲の史料の中から、自分の問題関心や学界の研究動向、上桂荘の研究史などに関わった論点を各自で見出し、自身のオリジナリティや研究史上・学説史上の意義といったものを意識した考察を目指す。将来論文として発表することや、自分の修論・博論に繋げることも目標とする。
    *課題カダイ 昨年度から引き継がれた課題の一つは、複雑フクザツに錯綜する伝領関係の全貌を明らかにすることである。しかし、史料的制約があるのみならず、特に上桂荘の領有をめぐる相論においては、自身の正当性を主張する訴訟当事者が多数に上り、各人が自らの主張を正当付ける証拠を持ち出してくるのがオオきな問題モンダイである(当事者主義という中世社会の性格を如実に反映している)。ただ、本年度のゼミの真骨頂はむしろこの相論に最終的な幕が下り東寺の一円支配が確立した後である。東寺の一円支配が確立した後(室町期・戦国センゴク)の上桂荘に関する専論はケッしてオオくなく、研究素材としての可能性は未知数といって。参照・踏襲すべき先行研究が少ないだけに報告者の技量が試されるが、ゼミのナカから最新の研究≠ェ生まれるか否か、ゼミの真価が試されている。なお、近隣の久世荘については比較的研究がある。西岡十一箇郷は桂川からの引水により農業用水をまかなっており、共同キョウドウして水路の維持管理などがなされていたことから、上桂荘の研究の空白を久世荘の研究により少なからず補えるものと考えられる。また、今年度は実際に現地の巡見も行うので、昨年度課題とされた「荘園の空間的把握(水利や検地帳の検討など)」についても切れ込んだ報告がなされることを期待する。桂川の河道変遷や水利を記した差図に関する歴史地理的・景観論的研究は少なくないので参照サンショウされたい。
    ※このホカ年間ネンカンスケジュールの確認カクニンや、カミカツラショウカンする概説ガイセツなどをオコナった。
  喜多キタヤスシ 卒論ソツロン報告ホウコク 平安期ヘイアンキ古文書コモンジョる『』」    
4月16日 下村シモムラシュウ太郎タロウ ガイダンス・ゾク上記ジョウキ「ガイダンス」参照サンショウ    
  植田ウエダマコトヘイ 卒論ソツロン報告ホウコク 十五世紀ジュウゴセイキ内乱ナイラン鎌倉カマクラ古河コガ公方クボウ奉行ブギョウシュウ変遷ヘンセンについて」  
  青田有美子 卒論ソツロン報告ホウコク 承久ジョウキュウラン前後ゼンゴチョウバク関係カンケイ    
4月23日 岡山宣孝 卒論ソツロン報告ホウコク 藤堂トウドウタカトラの『徳川トクガワ初期ショキ政権セイケンいてした役割ヤクワリ』と『カカわったシロ』」  
  東田英司 卒論ソツロン報告ホウコク 信長ノブナガ朝廷チョウテイ  
5月6日 下村シモムラシュウ太郎タロウ 担当タントウ範囲ハンイ 1 康永コウエイ三年3ネン(1344) ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ 天地テンチ
       
      12 貞和ジョウワ五年5ネン(1349) 学衆方評定引付 ム22
    注目チュウモク記事キジ 2 ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ 康永コウエイ三年3ネン十一月ジュウイチガツ二十三日23ニチジョウ  
      12 ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ 貞和ジョウワ五年5ネン七月シチガツ十五日15ニチジョウ  
    考察コウサツ 上桂カミカツラショウ宗教シュウキョウ世界セカイ松尾マツオシャサンミヤシャ中心チュウシン  
    成果セイカ課題カダイ 考察コウサツでは、上桂カミカツラショウ関係カンケイ史料シリョウえるフタつの神社ジンジャ松尾社マツオシャ三宮社サンノミヤシャについて検討ケントウした。西岡ニシオカショゴウでは松尾マツオシャ桂川カツラガワ用水ヨウスイ取水シュスイグチ鎮座チンザするカミとして認識ニンシキされ、水源スイゲンないし井堰イセキ位置イチするミズカミとして信仰シンコウされていた、トクに、ミチ上桂カミカツラショウ祈祷キトウとして松尾社の神楽をオコナっていたことから、西岡ニシオカショゴウ結合ケツゴウ形成ケイセイされる以前イゼン鎌倉カマクラ後期コウキ上桂カミカツラショウ開発カイハツ支配シハイしたミチ松尾マツオシャ水利スイリカミとして重視ジュウシしていたとカンガえた。また、三宮サンノミヤシャについては、桂川カツラガワ河岸カガン地域チイキ一帯イッタイゲン西ニシキョウミギキョウ)に複数フクスウ存在ソンザイすることを確認カクニンし、この地域チイキにおけるいわば「三宮サンノミヤ信仰シンコウ」とうべきものの存在ソンザイ想定ソウテイした。ただ、三宮サンノミヤ信仰シンコウ具体的グタイテキ中身ナカミについては「ミズ」にカカわる三神が祭られたと言う可能性を指摘するにトドまった。さらに、桂川カツラガワ用水ヨウスイ媒介バイカイにした西岡ニシオカ地域チイキにおける村落ソンラクカン結合ケツゴウ形成ケイセイ過程カテイ史的シテキ特質トクシツ解明カイメイなどについては、本年ホンネン全体ゼンタイツウじての課題カダイとなったとえる。史料シリョウ講読コウドクにおいては、モン訴訟ソショウについての記事キジである記録キロク12の二月ニガツ二十八日ニジュウハチニチジョウが、モン実態ジッタイウエ有効ユウコウ史料シリョウではないかとの指摘シテキがあった。
5月14日 小林コバヤシ美里ミサト 担当タントウ範囲ハンイ 13 貞和ジョウワ五年5ネン(1349) 学衆方評定引付抜書ヌキガ 天地テンチ
5月21日      
補足ホソク     20 文和ブンナ元年ガンネン(1352) 学衆方評定引付抜書ヌキガ 天地テンチ
    注目チュウモク記事キジ 14 ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ 観応カンノウ元年ガンネン六月ロクガツ三日ミッカジョウ  
    考察コウサツ 井料イリョウ年貢未ネングミススム    
    成果セイカ課題カダイ 上桂カミカツラショウ史料シリョウには井料イリョウカンする史料シリョウ相当数ソウトウスウ存在ソンザイするが、考察コウサツでは伊藤イトウ一義カズヨシ稲葉イナバ陽氏ヒロミシ議論ギロンまえ、このリョウ年貢ネングシン関係カンケイ検討ケントウした。リョウシンリョウ在地ザイチにとって不可欠フカケツなものである一方イッポウで、オオきな負担フタンでもあり、この在地ザイチ負担フタン年貢ネングシンにつながる悪循環アクジュンカンをもたらしたと指摘シテキした。そして、こうした状況ジョウキョウは、洪水コウズイによるミゾ修理シュウリツネ問題モンダイとなるという桂川カツラガワ流域リュウイキ地理的チリテキ条件ジョウケン規定キテイされていることを想定ソウテイした。ゼミナカは、注目チュウモク記事キジナカの「ソトイタル来秋ライシュウクワブンナド不可フカモチ」の「ブン」や「モチ」が具体的グタイテキナニかをめぐって議論ギロンになった。
5月21日 貫井ヌクイ裕恵ヒロエ 担当タントウ範囲ハンイ 21 文和ブンナ二年2ネン(1353) ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ム27・天地テンチ55
6月4日     22 文和ブンナ三年3ネン(1354) ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ム28
      195 ヒガシタカラ第六ダイロクホウタカラシタ  
      196 ヒガシタカラダイナナソウタカラウエ  
    注目チュウモク記事キジ 195 ヒガシタカラ第六ダイロクホウタカラシタ    
    考察コウサツ 東寺トウジにおける法会ホウエアト宇多ウダイン東寺トウジ興隆コウリュウ政策セイサク  
             
    成果セイカ課題カダイ 195・196について国宝コクホウボン清書セイショボンドウ草稿ソウコウホンによって校訂コウテイした。そのうち、注目チュウモク記事キジとしてげた196のナカの「ロンシュウ十人ジュウニンウチ学衆ガクシュウハチニン」の解釈カイシャク議論ギロンとなり、「論義衆十人ロンギシュウジュウニンウチ学衆ガクシュウ八人ハチニン」とむのが適当テキトウではないかという意見が出た。考察コウサツでは、橋本ハシモト初子氏ハツコシ上島ウエシマトオル議論ギロンまえながら、康永コウエイ三年サンネンハジまりハヤくも文和ブンナ三年サンネンオコナわれなくなった東寺トウジ法会ホウエヒトつである五日イツカジュウ論議ロンギ着目チャクモクして、宇多ウダイン東寺トウジ興隆コウリュウ事業ジギョウ特質トクシツについてロンじた。五日イツカジュウ論議ロンギオコナわれたである御影堂ミエイドウ東寺トウジ主体的シュタイテキ法会ホウエであることを確認カクニンしたウエで、東寺トウジオコナオンのうち論義講を行うのは後宇多院のそれのみであることなどに注目し、五日イツカジュウ論議ロンギ院政期インセイキホウカツオンハチコウオコナわれていたことをまえ、宇多ウダイン東寺トウジガン指向シコウセイ指摘シテキした。また、それが観応カンオウ文和ブンナ動乱ドウランなどをることで退転タイテンしたことも指摘シテキした。ゼミではこの考察コウサツまえ、院政期インセイキ南北朝ナンボクチョウの顕密体制の相違とはナニかや、東寺においてどのような法会が継承され、また逆に退転したのか、などよりオオきな問題モンダイ所在ショザイ議論ギロンされた。
6月4日 青田アオタ有美子ユミコ 担当タントウ範囲ハンイ 23 文和ブンナ四年4ネン(1355) ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ム29・天地テンチ
6月18日      
      26 延文エンブン四年4ネン(1359) ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ム36
    注目チュウモク記事キジ 23 ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ 文和ブンナ四年4ネン九月クガツ十四日ジュウヨッカジョウ  
    考察コウサツ 東寺トウジ西山セイザン法花ホウゲ山寺ヤマデラ浄土ジョウドインとの相論ソウロン  
    成果セイカ課題カダイ 注目チュウモク記事キジ考察コウサツについて、上桂カミカツラショウをめぐる東寺トウジ西山ニシヤマ浄土ジョウドインソウロンカカわった仁木ニキハク立場タチバ議論ギロンになった。すなわち、西山ニシヤマ浄土ジョウドインはすぐキタ丹波タンバ山城ヤマシロとをムスグンドウとして利用リヨウされたカラヒツが、ミナミ山陰サンインドウ存在ソンザイし、尊氏タカウジジンかれたところであるが、仁木氏ニキシ幕府バクフ執事シツジである一方イッポウ丹波タンバ守護シュゴであり、ハク々部下丹波の土豪で丹波の山陰道の合戦に参加していることなどから、このソウロンにおける仁木ニキハク々部氏の位置付けが問題になったのである。
6月9日 ハル合宿ガッシュク ニチ 東寺トウジ文書モンジョ閲覧エツラン東寺トウジ宝物館ホウモツカン)・東寺トウジ境内ケイダイ見学ケンガク  
10ニチ クズオオセキ上桂カミカツラショウ故地コチ周辺シュウヘン巡見ジュンケン    
6月11日 (@京都キョウト   桂川カツラガワ用水ヨウスイ沿いにキタからミナミかって巡見ジュンケンした。巡見ジュンケンコースは以下イカトオり。渡月橋トゲツキョウナカシマ公園コウエン集合シュウゴウクズ大堰オオゼキイチセキ松尾マツオ大社タイシャ石堂イシドウグチ今井イマイ取水シュスイグチ故地コチカミカツラ御霊ミタマ神社ジンジャ今井イマイタカハネ分水地点→川島春日社→川島三宮神社→西山御坊前→桂地蔵→下桂御霊神社→桂離宮周辺を経て桂駅解散、懇親会
    11ニチ キョウオウ護国寺ゴコクジ文書ブンショ閲覧エツラン京都キョウト大学ダイガク    
    謝辞シャジ 9日は、東寺宝物館の新見康子さんはじめ、東寺宝物館の方々に大変お世話になった。大人数での文書閲覧は東寺史上初という、特段のご高配を賜った。10日は、立命館大学の大山喬平さん・三枝暁子さん、向日市文化資料館の玉城玲子さんにご案内いただいた。また、東京大学史料編纂所の高橋敏子さん・遠藤珠紀さん、南カリフォルニア大学のピジョーさんご夫妻、立命館大学の杉橋隆夫さん・杉橋ゼミの院生の皆さんにもご同行いただき、大変充実した巡見となった。11日は、京都大学の早島大祐さんに大変お世話になった。各位に衷心より感謝申し上げたい。
    参加者サンカシャ 海老澤エビサワ衷先生・清水克行・徳永健太郎・宮崎肇・高橋傑・守田逸人・西尾知己・高橋裕美子・大澤泉・中島昌治・北村彰裕・玉井景子・松澤野絵・後藤麻衣・小林美里・貫井裕恵・野村和正・青田有美子・植田真平・岡山宣孝・喜多泰史・下村周太郎
6月18日 岡山オカヤマ宣孝サダタカ 担当タントウ範囲ハンイ 27 延文エンブン四年4ネン(1359) 学衆方評定引付抜書ヌキガ ル56
6月25日      
      34 貞治ジョウジサンネン(1364) ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ム40・ル60
    注目チュウモク記事キジ 27 学衆方評定引付抜書ヌキガ 延文エンブン四年4ネンジョウ  
    考察コウサツ 京都キョウト盆地ボンチ地形チケイ桂川カツラガワ大堰オオセキカワ)・当時トウジ気象キショウ状況ジョウキョウ  
    成果セイカ課題カダイ 今年度コンネンド講読コウドク史料シリョウには、上桂カミカツラショウ桂川カツラガワ洪水コウズイや河道変遷の影響をツヨけていたことがウカガえる史料シリョウ豊富ホウフ見出ミイダされる。考察コウサツでは、上桂カミカツラショウカンガえるウエ無視ムシできない上桂カミカツラショウ自然シゼン環境カンキョウ問題モンダイとしてげ、@京都キョウト盆地ボンチ地形チケイ、A桂川カツラガワカワミチ変遷ヘンセン、B延文エンブン貞治サダハル年間ネンカン気象キショウ状況ジョウキョウについて検討ケントウクワえた。ただ、上桂カミカツラショウ直接チョクセツ関連カンレンする史料シリョウ利用リヨウ不十分フジュウブンであったため、一般イッパン論的ロンテキ指摘シテキにとどまった。上桂カミカツラショウ史料シリョウソクした具体的グタイテキ実証的ジッショウテキ検討ケントウ課題カダイとなった。史料シリョウ講読コウドクでは、シタツカサショクをめぐって登場トウジョウするコレミナミや栄済の立場や性格が話題になった。また、「完用途」とえるものが「肉用途」と同じなのか(「完」ではなく「宍」?)も話題ワダイになった。
6月25日 植田ウエダ真平シンペイ 担当タントウ範囲ハンイ 35 貞治ジョウジ五年5ネン(1366) ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ム42
       
      44 永和エイワ元年ガンネン(1375) ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ラ8
    注目チュウモク記事キジ 37 ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ 貞治ジョウジ六年ロクネン七月シチガツ三日ミッカジョウドウ四日ヨッカジョウドウ十月ジュウガツ六日ムイカジョウ
    考察コウサツ シタツカサの「ワタクシケンダン」と東寺トウジ対応タイオウ    
    成果セイカ課題カダイ 考察コウサツでは、注目チュウモク記事キジえる貞治ジョウジ六年の検断事件について取り上げ、特に、検断を行った下司是妙が東寺から「私検断」として問題とされた事実に注目しながら、上桂荘における下司や東寺の荘園支配の変化について論じ、この一件が下司秦氏の衰退や東寺の直務支配強化の要因となったと指摘した。史料集には上桂荘における検断事件が複数見られ、研究史に照らしても興味深い事例が少なくないが、これ以降のゼミではそれぞれの事件から分かる検断の内実や特質、その変遷について関心が高まりしばしば話題になった。史料講読コウドクでは、記録キロク40の二月ニガツ二十八日ニジュウハチニチジョウえる「オンタズ」の内容ナイヨウ性格セイカクについて議論ギロンになった。
7月2日 東田ヒガシダ英司エイジ 担当タントウ範囲ハンイ 45 永和エイワ二年2ネン(1376) ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ラ9
7月9日      
補足ホソク     62 応永オウエイ十一年11ネン(1404) 廿ニジュウ一口ヒトクチドシアズカリ 追加ツイカ
    注目チュウモク記事キジ 50 ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ 至徳シトク二年ニネン九月クガツ二十九日29ニチジョウ  
    考察コウサツ ツジミヤ親王シンノウ寄進キシン譲与ジョウヨ    
    成果セイカ課題カダイ 注目文書では、大林家春が上桂荘の領家職を主張して東寺と裁判になったことが分かる。上桂荘の伝領関係が極めて複雑であり、それに伴って鎌倉後期から南北朝期にかけて頻繁に相論が展開したことは先行研究でも取り上げられているところであり、昨年度のゼミでの中心的な問題でもあった。今回の相論もその余波の一つだが、考察では複雑な伝領関係を招く大きな要因の一つとなった四辻宮親王の寄進・譲与を問題とし、現代法の一物一権主義や物権法定主義などと比較しながら、中世の法や裁判の特質を考えることを試みた。法や裁判、また「所有」をめぐって、史料に即したより具体的で詳細な検討や、理論的な問題の追究が課題となった。史料講読では、上野荘に名主職を保持していると見られる六条道場について話題になった。この頃からゼミでは、上野荘の名主職の一部を東寺以外の寺院や近隣の領主が保持しているとの認識が高まり、東寺の上野荘支配がどの程度貫徹していたものなのかが注意されるようになった。
7月2日 後藤ゴトウ麻衣マイ 担当タントウ範囲ハンイ 63 応永オウエイ十二年12ネン(1405) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ く2
7月9日      
      75 応永オウエイ十五年15ネン(1408) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ引付ヒキツケ条目ジョウモク大概タイガイ目安メヤス 追加ツイカ13
    注目チュウモク記事キジ 73 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 応永オウエイ十四年14ネンジョウ  
    考察コウサツ カイシュン逐電チクデンについて    
    成果セイカ課題カダイ 今回の講読範囲では、在地における水害発生時の対応や、その後の復旧作業(「伏井埋」など)が窺える史料が多かった。史料シリョウ講読コウドクでは、記録キロク74にえる「セイマイ」がナニかが話題ワダイとなった(以後イゴ史料シリョウ散見サンケンされるが、後期コウキになってヒトつの見通ミトオしがられる)。注目チュウモク記事キジの「井口イグチフサ」という表現ヒョウゲン解釈カイシャクなども議論ギロンになった。「スイ興行コウギョウ」(文書モンジョ452)という言葉コトバカンしては、その規模キボ為政者イセイシャ荘園ショウエン領主リョウシュ関与カンヨ有無ウムなどが議論ギロンとなった。また、記録キロク63の十月二十八ニジュウハチ日条のみが議論ギロンとなり、引付ヒキツケという史料シリョウ独特ドクトク記述キジュツ仕方シカタについてアラタめて注意チュウイウナガされた。考察では、大量の負債を抱え逐電した快舜について取り上げ、藤木久志氏の逐電チクデン議論ギロンなどをまえながら、快舜の逐電が負債の追求を逃れるための積極的な措置であったと指摘した。注目記事では快舜逐電後の後家の扶持などについても話題になっており、より様々な観点から逐電の諸相を検討し、研究史ケンキュウシ更新コウシン目指メザす必要があろう。
7月9日 喜多キタヤスシ 担当タントウ範囲ハンイ 76 応永十七年17ネン(1410) 廿一口方評定引付 く5
7月23日      
補足ホソク     91 応永オウエイ二十九年29ネン(1422) ガクシュウカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ネ96
    注目チュウモク記事キジ 77 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ引付ヒキツケ条目ジョウモク大概タイガイ目安メヤス 応永オウエイ十八年18ネンジョウ  
      88 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ引付ヒキツケ条目ジョウモク大概タイガイ目安メヤス 応永オウエイ二十八年28ネンジョウ  
    考察コウサツ 廿一口方評定ヒョウジョウ引付大概目安の性格セイカク  
    成果セイカ課題カダイ 記録キロク53以降イコウガクシュウカタ引付ヒキツケだけでなく廿ニジュウイチクチカタ鎮守チンジュ八幡宮ハチマングウカタ引付ヒキツケなども登場トウジョウするが、カク記録キロク性格セイカクウエでも、カク記録キロクえる上桂カミカツラショウ関連カンレン記事キジカク記録キロクそのものとの関係カンケイなどに注意チュウイする必要ヒツヨウがある。考察コウサツではこのことをまえ、廿ニジュウイチクチカタ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ大概目安の性格について検討を加え、それが明応六年に年預であった宗承が、応永から応仁までの廿一口方評定引付を「抜書」したもので、抜書を主とするが編集者の宗承の私見も含んでいる事などを指摘した。なぜ、応仁から応永年間が抜書の対象となり、抜書される記事の基準は何だったのか?、また、何を何故「抜書」と言ったのか?、抜書は他にどのくらい作られ、それぞれどのような特徴があったのか?などの質問が出された。史料講読では、記録91・92などに見える上桂カミカツラショウ竹原タケハラ領有リョウユウ問題モンダイ応永オウエイ二十八・二十九年)が、「公方クボウ」や「青蓮院ショウレンイン」・「三宝サンポウイン」などが関与カンヨしていることから、当該トウガイ政治セイジ状況ジョウキョウカンガえる素材ソザイとなりうるとして議論ギロンになった。また、この一件イッケンカンし、史料集には採録されていないが、関連する史料として、東寺百号文書やハコ61ゴウ、やハコ62ゴウ紹介ショウカイされた。
7月23日 野村ノムラ和正カズマサ 担当タントウ範囲ハンイ 92 応永オウエイ三十年30ネン(1423) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ く10
       
      102 正長ショウチョウ元年ガンネン(1428) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ ち7
    注目チュウモク記事キジ 102 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 正長ショウチョウ元年ガンネン六月ロクガツ二十九日29ニチジョウ  
    考察コウサツ 追放ツイホウ家財カザイ道具ドウグ    
    成果セイカ課題カダイ 注目チュウモク記事キジ考察コウサツでは、正長ショウチョウ元年ガンネン放火ホウカカカわるケンダン事件ジケンげられた。この事件ジケンでは、追放ツイホウ(「ショウシタハラ」)された犯人ハンニンイエが検封されるが、興味深いのは、この時に検封された家財道具の内容と「預申」た人物の名が知れるのである(文書408「上野庄検封家屋雑具注文」)。考察では、追放(藤木久志氏の言う「期限付き追放処置」)された人物が還住したときのために、「地下」が一時的に家財道具を預かる習俗があったのではないかと推測した。また、家財道具の中の「やり」や「ゆミ」といった武具の存在にも注意し、村の武力や農耕儀礼における歩射神事などとの関連を想定した。検断によって検封されたものが詳細に分かる事例であるだけに、当時の村落や百姓の問題を考えるためにさらに具体的な検討を進める必要があろう。なお、史料シリョウシュウ未収録ミシュウロクだが「上野ウエノ損亡ソンモウコト」がえる史料シリョウとして『廿一口供僧方評定引付』応永オウエイ二十三年ニジュウサンネン八月ハチガツナカザツ々公事(く函12号)が紹介された。
8月26日 ナツ合宿ガッシュク 修士シュウシ論文ロンブン構想コウソウ報告ホウコク
8月28日 (@軽井沢カルイザワ 報告者ホウコクシャ 岡山オカヤマ宣孝サダタカ植田ウエダ真平シンペイ東田ヒガシダ英司ヒデジ青田アオタ有美子ユミコ後藤ゴトウ麻衣マイ貫井裕恵ヌクイヒロエ小林コバヤシ美里ミサト田村仁タムラジン
10月1日 野村ノムラ和正カズマサ 担当タントウ範囲ハンイ 103 永享エイキョウ三年サンネン(1431) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ ち8
       
      113 永享エイキョウ八年ハチネン(1436) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ く15
    注目チュウモク記事キジ 104 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 永享エイキョウ四年4ネン二月ニガツ二十七日ニジュウナナニチジョウ  
    考察コウサツ 永享エイキョウ年間ネンカン上野ウエノショウ灌漑カンガイ事業ジギョウについて  
    成果セイカ課題カダイ 史料シリョウ講読コウドクでは、記録キロク108にえる「フシハラ」が注目チュウモクされた。梅津ウメツにあるとされており、当時トウジ上野ウエノショウショウイキ桂川カツラガワの河道を考える材料となりうるからである。節原の表記は区々だが(現在は罧原)、以後散見されたびたび話題になった。また、後期コウキ講読コウドク範囲ハンイではしばしば室町ムロマチ幕府バクフ発給ハッキュウ文書モンジョなどがられるようになるが、差出サシダシ宛所アテドコロにある奉行ブギョウニン守護シュゴ立場タチバなどをめぐって議論ギロンになった。考察コウサツでは、永享エイキョウ年間ネンカン灌漑カンガイ事業ジギョウげられ、度重タビカサなる洪水コウズイ用水ヨウスイ破損ハソンにより、東寺トウジ寺家ジケチカラによる灌漑カンガイ整備セイビアキラめ、カワシマなどテラカンではない在地ザイチ有力者ユウリョクシャ代官ダイカン補任ホニンすることで再開発サイカイハツ目指メザすようになっていったとロンじた。詳細ショウサイ検討ケントウ今後コンゴ課題カダイとなったが、室町ムロマチの上野荘支配の変質を考えるための一つの見通しが得られた。
  松本マツモト精一セイイチ 講演コウエン 京都キョウト桂川カツラガワ農業ノウギョウ水利スイリ  
10月15日 中島ナカジマ昌治マサハル 担当タントウ範囲ハンイ 114 永享エイキョウ八年ハチネン(1436) 鎮守チンジュ八幡ハチマンミヤソウ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ワ51
       
      127 文安ブンアン三年サンネン(1446) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ く18
    注目チュウモク記事キジ 120 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 嘉吉カキツ元年ガンネンウルウ九月クガツ二十三ニジュウサン日条ニチジョウ  
    考察コウサツ        
    成果セイカ課題カダイ 注目チュウモク記事キジをはじめ、この前後ゼンゴ上野ウエノショウ代官ダイカンとして寺崎テラサキゲンミヤビアラワれるが、先行センコウ研究ケンキュウなどもまえてゲンミヤビ性格セイカク話題ワダイになった。トクに、記録キロク122・126・127などでは、上野ウエノショウ支配シハイをめぐるゲンミヤビシャクゼニ返還ヘンカン問題モンダイとなっているが、ここでの貸借タイシャクナガれが話題ワダイとなり、トクに「デン」(記録キロク122)という表現ヒョウゲン解釈カイシャクなどが議論ギロンになった。また、永享十一年の桂川用水石道口をめぐる相論について、特に文書437・438・439の流れが議論され、史料集では「東寺申状案」とされている文書438については、東寺雑掌申状である文書437に対する相手方の反駁ハンバクモウジョウであることが想定された。クワえて、この文書437や438が玄雅筆の案文であるとの知見も示され、玄雅が自らの活動について書いた内容であると考えられた。このゲンミヤビ時期ジキ借銭シャクセン問題モンダイ用水ヨウスイソウロンは、当該トウガイ上野ウエノショウ用水ヨウスイ、また東寺トウジ荘園ショウエン支配シハイカタカンガえるウエ興味深キョウミブカ事例ジレイであったが、史料シリョウみが不十分フジュウブン議論ギロンフカれなかったのが課題カダイとしてノコった。なお、この時期ジキから守護シュゴ段銭タンセン幕府バクフ関係カンケイ記事キジスクなくなく、以後イゴゼミでもしばしば話題ワダイにのぼったが、記録キロク118では、山城ヤマシロクニ守護シュゴ赤松アカマツ守護シュゴ使ツカ(あるいは東寺トウジ担当タントウ守護シュゴ奉行ブギョウニンカ)とオモわれる人間ニンゲン名前ナマエ(「中山ナカヤマカタ」)が議論ギロンになった。
10月22日 貫井ヌクイ裕恵ヒロエ 担当タントウ範囲ハンイ 128 文安ブンアン四年ヨネン(1447) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ く19
       
      141 康正コウショウ二年ニネン(1456) 鎮守チンジュ八幡ハチマンミヤソウ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ る62
    注目チュウモク記事キジ 128 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 文安ブンアン四年ヨネン十二12ガツ二十ニジュウ四日ヨッカジョウ  
    考察コウサツ 寺崎テラサキゲンミヤビをめぐって    
    成果セイカ課題カダイ 担当タントウ範囲ハンイではキュウシュショクについての史料シリョウオオかったが、上野ウエノショウアズトコロショク・給主職について議論になった。預所職から所務が切り離されて給主職になったとする伊藤一義氏の見解があるが、報告ではそれぞれを別個の相互に連動するものではないかとの解釈が示された(給主=供僧クラス、預所=寺官クラス)。史料用語と分析概念とを区別した上で、改めて史料に見える表記や任命された人物の地位などを総合的に検討していく必要性が確認された。また、上野荘の名主職を持つものとして、長国寺、梅宮別当中野氏、西ニシカオルなどが見え、上野荘には東寺以外にも荘外の様々な有力者が権益をもっていた様子がいよいよ明らかになってきたが、玄雅との関連も窺えるなど興味深い史料が少なくなかった。また、前回に引き続き松尾社も絡んだ用水相論が展開している時期であり、この時期の相論の流れが議論された。記録キロク137には「松尾マツオマス」などマスカンするやりりがられ話題ワダイになった。注目記事や論点では、ここ数回のゼミで話題になっていた寺崎玄雅について取り上げられ、富田正弘氏・上島有氏・阿諏訪青美氏らの研究も踏まえながら、交渉能力や実務能力に長けたその多様な人物像が明らかにされた。討論では、玄雅没後の後家や代官職の行方についても注目され、相伝によらない代官職の性格など室町期の荘園支配を考える上で興味深い事例であることが確認された。
10月29日 後藤ゴトウ麻衣マイ 担当タントウ範囲ハンイ 142 長禄チョウロク元年ガンネン(1457) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ く21
11月5日   注目チュウモク記事キジ 142 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 長禄チョウロク元年ガンネン七月ナナガツ八日ヨウカジョウ  
補足ホソク   考察コウサツ 東寺トウジ権門ケンモンクチニュウについて    
    成果セイカ課題カダイ 担当タントウ範囲ハンイでは、寺崎玄雅や梅宮執行中野賢祐らの上野ウエノショウ代官ダイカンショクアラタタイ名主ミョウシュショクバイトクをめぐり、将軍ショウグン細川ホソカワ阿波守護イエ成之ナリユキ)、幕府バクフ奉行ブギョウニン将軍ショウグンとも関係カンケイフカ山門サンモン法師ホウシヒカリイン猷秀らをんだ複雑フクザツ事態ジタイ惹起ジャッキしており、事実ジジツ関係カンケイ人間ニンゲン関係カンケイについて議論ギロンになった。考察コウサツでは、この一連イチレン事態ジタイにおける権門ケンモンニュウについて、伊藤イトウ俊一トシカズ研究ケンキュウまえて整理セイリ検討ケントウされ、ゲンミヤビ代官ダイカンショク罷免ヒメンサイ東寺トウジが光聚院をタヨったのにタイし、ゲンミヤビ細川氏ホソカワシタヨるなど、複雑フクザツ対抗タイコウ関係カンケイがあったことがアキらかにされた。また、東寺トウジが公人クラスの人間の解任さえ寺内で処理できないという東寺の自治機能の低下や、ゲン細川ホソカワ成之ナリユキタヨった背景ハイケイ東寺トウジ雑掌であった玄雅と細川阿波守護家被官との関係や垂水荘や新見荘での細川氏の口入成功事例などがあったのではないかと論じた。討論では、この一件に関わった個々の人物や人間関係の詳細について関心が集まり、特に光聚院の政治的立場などがどのようなものであったのかが課題となった。なお、史料シリョウ講読コウドクでは「指出」や「連署レンショブンツヨブン〉」、「五剋」などが話題ワダイになった。
11月5日  論点ロンテン  
11月12日 青田アオタ有美子ユミコ 担当タントウ範囲ハンイ 150 寛正カンショウ元年ガンネン(1460) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ引付ヒキツケ条目ジョウモク大概タイガイ目安メヤス 追加ツイカ13
      151 寛正カンショウ二年ニネン(1461) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ く24
    注目チュウモク記事キジ 151 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 寛正カンショウネン正月ショウガツ二十二日ニジュウニニチジョウ  
    考察コウサツ 屋敷ヤシキケンフウ    
    成果セイカ課題カダイ 史料シリョウ講読コウドクでは、上野ウエノショウショウイキなどについてカンガえるウエ興味深キョウミブカテンがいくつかあった。記録キロク151にえる「鳥原トリハラ」については関連カンレン史料シリョウアツめられ、宝寿院領タカラコトブキインリョウカツラ中荘ナカソオ千代原チヨハラ(=トリハラ)ともゴウされており、そのナカカミショウの「ルイ」が「散在サンザイ」していたようである。また、(現在ゲンザイ桂川カツラガワによって完全カンゼン両岸リョウガン分離ブンリしている)梅津ウメヅ荘と上野荘との間に境相論があったことや、上野ウエノショウ名主ミョウシュショク保持していると思われるものとして養源院(山門末寺とされ光聚院との関係も存在)・廊御局・正覚院などが見え、長福寺の関与も窺えるなど上野荘の利権が複雑であったことなどがれる。ホカには、記録キロク151にえる上野ウエノショウネガ論議ロンギについても議論ギロンオヨび、ガン論議ロンギオコナわれるのは特定トクテイ時期ジキカギられており、その時期ジキには桂川カツラガワ用水ヨウスイ山城ヤマシロクニなどについての幕府バクフ文書モンジョ発給ハッキュウされていることから、膝下シッカ荘園ショウエン経営ケイエイなどにカカわる政治的セイジテキ重要ジュウヨウ動向ドウコウ連関レンカンしてなされている可能性カノウセイ指摘シテキされた。注目チュウモク記事キジ考察コウサツでは、寛正カンショウネンカミショウナイトリハラ発生ハッセイした殺害サツガイ事件ジケンげられた。この事件ジケン発生ハッセイ箇所カショホウ寿コトブキインリョウ千代チヨハラナイ上野ウエノショウルイこったため、ケンダン主体シュタイをめぐって東寺トウジホウ寿コトブキインとがアラソうなど興味深キョウミブカケンダン事件ジケンであるが、考察コウサツでは屋敷ヤシキケンフウカンして「犯罪ハンザイケガれ」をめぐる研究史ケンキュウシタイしてコメントがなされた。先行センコウ研究ケンキュウへのコメントであったため一般イッパン論的ロンテキな記述が中心チュウシンとなったが、史料シリョウ内容ナイヨウユタかなので個別事例として詳細ショウサイ検討ケントウし、カミショウ東寺トウジリョウ)におけるケンダンカタについてより具体的グタイテキ議論ギロンカサねていくことが課題カダイとなった。
11月19日 小林コバヤシ美里ミサト 担当タントウ範囲ハンイ 143 長禄チョウロク元年ガンネン(1457) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ引付ヒキツケ条目ジョウモク大概タイガイ目安メヤス 追加ツイカ13
       
      149 寛正カンショウ元年ガンネン(1460) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ く23
    注目チュウモク記事キジ 149 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 寛正カンショウ元年ガンネン八月ハチガツ二十九日ニジュウクニチジョウ  
    考察コウサツ オボ上野ウエノショウキュウシュショクについて    
    成果セイカ課題カダイ 史料シリョウ講読コウドクでは、記録キロク146の七月ナナガツ二十二ニジュウニニチジョウの「中野ナカノ下地シタジカギカワ云々ウンヌンゼンモノカワキタハシマテハ中野ナカノ知行チギョウカワ以下イカミナミハ、為各別之タメカクベツノヨシ加下カシタウン々」などが、上野ウエノショウショウイキ知行チギョウ実態ジッタイウエ重要ジュウヨウ史料シリョウとして注目チュウモクされ、その解釈カイシャクフク議論ギロンがされた。また、今回コンカイ講読コウドク範囲ハンイには、上野ウエノショウカカわる地名チメイとして「ナカショウ」や「罧ハラ」がられた。考察コウサツでは、上野ウエノショウ給主職についてとりあげ、伊藤一義氏が遷代の職としているのに対し、長禄年間の杲覚以降、宝生院に付属し相伝の職となっていったと指摘し、杲覚就任時に上野荘給主職の性格が確立したと論じた。討論では、長禄四年の杲覚の上野荘預所職条々請文(文書581)の記載内容との関連が議論された。なお、記録キロク146には「徳政トクセイ」にカカわる記事キジがあったが、議論ギロンオヨばなかった。
11月19日 植田ウエダ真平シンペイ 担当タントウ範囲ハンイ 152 寛正カンショウ二年ニネン(1461) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ引付ヒキツケ条目ジョウモク大概タイガイ目安メヤス 追加ツイカ13
11月26日      
      155 寛正カンショウ四年ヨネン(1463) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ引付ヒキツケ条目ジョウモク大概タイガイ目安メヤス 追加ツイカ13
    注目チュウモク記事キジ 154 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 寛正カンショウ四年ヨネン四月シガツ二十九日ニジュウクニチ上野ウエノショウリョウダイカン連署レンショ書状ショジョウ
    考察コウサツ 松尾マツオ御前ゴゼンフチ用水ヨウスイソウロン上野ウエノショウ    
    成果セイカ課題カダイ 担当タントウ範囲ハンイには、一揆イッキ御成オナ段銭タンセンなどの史料シリョウ若干ジャッカンだが存在ソンザイし、この時期ジキの政治体制や社会状況を考える上で参考になる。ただ、今回の範囲の多くを占めるのが、著名な寛正年間の松尾御前淵用水相論の関係記事である。注目記事や考察ではこの寛正年間の相論について改めてその背景や経過、また上野荘の位置が指摘された。また、あわせて、応永以降の上桂荘関連の用水相論の年表の作成や、指図史料なども踏まえた各段階での用水路の復元が試みられ、議論のための下地が用意され有意義であった。上野荘そのものは登場しないことから史料集にも収録されていないが、松尾御前淵用水などをめぐる西岡と松尾との相論に関する史料も紹介された。ただ、この相論でしばしば問題となった「井」の「相博」とはどのような実態をさすのかなど、疑問も生じた。なお、記録154などでは上野荘の名主職保持者として新たに松厳寺も登場するが、それと関わって十一月十三日条に見える「カウハサマ」(史料集では「申ウハサ□」と読んでいる)は河間という人物をさすのではないかとの指摘もあったが、詳細は分からず課題として残った。
11月26日 喜多キタヤスシ 担当タントウ範囲ハンイ 156 寛正カンショウ五年ゴネン(1464) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ ち18
       
      159 寛正カンショウ六年ロクネン(1465) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ け17
    注目チュウモク記事キジ 158 鎮守チンジュ八幡ハチマンミヤソウ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ 寛正カンショウ五年ゴネン十二月ジュウニガツ二十七日ニジュウナナニチジョウA  
    考察コウサツ 免除メンジョムネとした将軍ショウグンハン御教オオシエショ奉行ブギョウジン連署レンショ奉書ホウショ効力コウリョク  
    成果セイカ課題カダイ 担当タントウ範囲ハンイには、土御門ツチミカド天皇テンノウ即位ソクイカカわる段銭タンセンムネベツゼニや、畠山ハタケヤマヨシ就と畠山政長との軍事衝突に際してのジンヨウキャク段銭タンセンについての賦課フカ免除メンジョカンする史料シリョウ複数フクスウあり、当該期の政治・軍事状況(「制札セイサツ獲得カクトクカンする記事キジもある)や上野荘内の様子を知る上で興味深い内容を含んでいる(記録キロク159によれば、カミショウ屋敷ヤシキ七間ナナケンで、そのうちヒトケンはヤモメである。植松ウエマツショウ四十八48ケンクラべるとだいぶ規模キボチイさい。なお、このトシは「散在サンザイデン損亡ソンモウ」)。考察コウサツでは、担当タントウ範囲ハンイ段銭タンセンジンヤクカンして「免除メンジョ」をムネとする室町ムロマチ幕府バクフ文書モンジョ複数フクスウあることから、室町ムロマチ幕府バクフ発給ハッキュウ免除メンジョ承認ショウニン文書モンジョフタつの形式ケイシキである将軍ショウグン御判御教書と奉行人連署奉書との効力コウリョク異同イドウについて検討ケントウクワえ、前者ゼンシャは免除地であることを証明する最重要証文であり、半永久的な効力を有するのに対し、後者コウシャは個々の案件に際してその都度発給される一時的な効力しかもっていなかったと論じた。討論では管領奉書との関係などについて質問が出たが、この結論が室町幕府文書論全体の中でいかに位置付くのか今後の課題である。なお、以前から散見されてきた「井里」「井埋」「井利」「井裏」について(記録156には「井口ニ可被立井利」、「溝口仁井裏可伏」などと見える)、近世の指図に見える「ユリ」であり、井口に設置する分水設備であることが議論の中で明確になった。
12月3日 北村キタムラ彰裕アキヒロ 担当タントウ範囲ハンイ 160 寛正カンショウ六年ロクネン(1465) 鎮守チンジュ八幡ハチマンミヤソウ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ね8
       
      168 文明ブンメイ元年ガンネン(1469) 鎮守チンジュ八幡ハチマンミヤソウ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ ね12
    注目チュウモク記事キジ 167 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 文明ブンメイ元年ガンネン六月ロクガツ十六日ジュウロクニチジョウ  
    考察コウサツ 東寺トウジリョウ上野ウエノショウ応仁オウニン文明ブンメイラン    
    成果セイカ課題カダイ 史料シリョウ講読コウドクでは、前回ゼンカイツヅジンヤク段銭タンセン免除メンジョカンする記事キジがあり、トクに、記録キロク162にえる大奉幣米オオホウヘイコメ段銭タンセン免除メンジョ文書ブンショナガれ、それにタイするレイゼニなどについて議論ギロンになった。今回コンカイ講読コウドク範囲ハンイでは、応仁オウニン文明ブンメイラン勃発ボッパツしたことがオオきな出来事デキゴトであるが、応仁オウニン文明ブンメイラン上野ウエノショウでは「伊賀イガ近江オウミシュウ」が自領と称して知行(軍事占拠)しており(上野ウエノショウ東寺トウジ両国リョウコクシュウの「二重フタエ」、両国リョウコクシュウ東寺トウジスイリョウ要求ヨウキュウ)、この「両国衆」の内実や応仁・文明の乱時の京都近郊での軍勢の活動などが議論になった。応仁・文明の乱における西岡での動向については、久世荘を中心に酒井紀美氏の専論があるが、考察では、乱時の上野荘での動向ドウコウについて具体的かつ詳細ショウサイに検討が加えられ、免除の奉書を得るだけで良しとする東寺トウジタイし、免除メンジョ奉書ホウショがほとんど効果コウカをなさなかった現地ゲンチ上野ウエノ現実ゲンジツ両軍リョウグンからの兵糧米賦課、半済、庄家焼失、米一粒も無し、逃散など)がアキらかにされた。なお、これまでのゼミでも話題ワダイとなっていた上野ウエノショウショウイキカンしては、記録キロク166に梅津ウメヅショウにある上野ウエノショウナイとして「附子原(フシハラ)」がえるほか、文書モンジョ604に「千代チヨハラアタ上野ウエノアイダサト二ヶ所ニカショザイイチゴウカミカツライチゴウオンショウ〉」とあることが指摘シテキされ、この時期ジキには上野ウエノ上桂カミカツラコトなる集落シュウラクであり、また研究ケンキュウ史上シジョウ問題モンダイとなっていた「オンショウ」もヒトつのサトであることが確認カクニンされた。
12月10日 大澤オオサワイズミ 担当タントウ範囲ハンイ 169 文明ブンメイ二年ニネン(1470) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ ち19
       
      180 文明ブンメイ十七17ネン(1485) 鎮守チンジュ八幡ハチマンミヤソウ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ け41
    注目チュウモク記事キジ 171 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 文明ブンメイ四年ヨネン十二月ジュウニガツ二十一日ニジュウイチニチジョウ  
      171 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 文明ブンメイ四年ヨネン十二月ジュウニガツ二十三ニジュウサンニチジョウ  
    考察コウサツ 上野ウエノショウ代官ダイカン罷免ヒメン経緯ケイイについて    
    成果セイカ課題カダイ 講読コウドク範囲ハンイでは、前回ゼンカイツヅき、応仁オウニン文明ブンメイラン動向ドウコウ中心的チュウシンテキ話題ワダイとなっている。話題ワダイ豊富ホウフだが、トクに、足軽アシガルヨンブンイチ賦課フカされたこと、ラン終息シュウソク法会ホウエ所領ショリョウの「興行コウギョウ」がオオられることなどに注目チュウモクアツまった。山名政豊からモウれがあったという「裏成」については課題カダイとしてノコった。政治セイジ関連カンレンだと、ヒガシヤマ山荘サンソウオン普請フシン賦課フカされたことなどがれる。注目チュウモク記事キジ考察コウサツでは、文明ブンメイ四年ヨネンから文明ブンメイ七年ナナネンにかけて懸案ケンアンとなった、観・乗円上野荘両代官罷免問題について取り上げられた。文明ブンメイ四年ヨネンリョウ代官ダイカン年貢ネングシン問題モンダイとなり、両代官が誉田氏、さらに畠山氏を頼ったのにタイし、東寺トウジ大内氏オオウチシタヨってリョウ代官ダイカン罷免ヒメン義絶ギゼツオコナったことが指摘シテキされ、文明ブンメイ七年ナナネンになって東寺トウジネンジョていること、また文明ブンメイ四年ヨネン当時乱世であったことを理由に特別に赦免している点に注目した。討論では、大内の立場や、誉田・畠山に頼って罷免を回避しようとするこの時期の代官の特質などが議論された。
12月17日 東田ヒガシダ英司エイジ 担当タントウ範囲ハンイ 181 文明ブンメイ十八18ネン(1486) 鎮守チンジュ八幡ハチマンミヤソウ評定ヒョウジョウ引付ヒキツケ け41
       
      186 延徳エントク三年サンネン(1491) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 天地テンチ45
    注目チュウモク記事キジ 183 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ 長享チョウキョウネン四月シガツ二十八日ニジュウハチニチジョウB・C
    考察コウサツ 参照サンショウされる引付ヒキツケ    
    成果セイカ課題カダイ 講読コウドク範囲ハンイナカで、政治的セイジテキ話題ワダイとして注目チュウモクされたのは内裏ダイリ東山両方ヒガシヤマリョウホウ普請フシンせられていることである。また、用水ヨウスイ関係カンケイでは「井リ」(以前の議論を踏まえ「圦(いり)」であることが確定)のほか、「シカラミ」や「川ヨケ」も見られた。さらに、記録186などにおける融盛の給主補任問題モンダイについて、融盛の「未出仕之仁」という立場が議論ギロンとなった。ホカにも名主ミョウシュショク保持者ホジシャられる「キタ御所ゴショ」や、記録キロク184などで「振舞フルマイ」されている「葉室ハムロ代官ダイカン山口ヤマグチ」や「コモフチ(コモフチ)」がダレかや、記録キロク184で一揆イッキ関連カンレンしてえる「ゴウ沙汰サタ」とはナニかなどが問題モンダイとなった。注目チュウモク記事キジでは長享チョウキョウネンケンダン事件ジケンげられたが、考察コウサツでは、そのサイ東寺トウジ対応タイオウとしてえる「引付ヒキツケエラトコロ応永オウエイ五年ゴネン引付ヒキツケ委細イサイ」という文言モンゴン注目チュウモクし、応永オウエイ三十五年サンジュウゴネン一件イッケン内容ナイヨウ長享チョウキョウネンのそれとを比較ヒカクして、あくまで両者リョウシャ事件ジケン内容ナイヨウコトなっており、引付ヒキツケ照会ショウカイにおいて重要ジュウヨウであったのは結論ケツロン部分ブブンであって、結論ケツロンイタ過程カテイはさほど重要ジュウヨウではなかったとロンじた。
1月21日 岡山オカヤマ宣孝サダタカ 担当タントウ範囲ハンイ 187 明応メイオウ二年ニネン(1493) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ ち26
       
      194 永正エイショウ九年クネン(1512) 廿ニジュウ一口ヒトクチガタ評定ヒョウテイ引付ヒキツケ ち27
    注目チュウモク記事キジ 189 鎮守八幡宮供僧評定引付 明応メイオウ九年クネン十月ジュウガツ十七日ジュウシチニチジョウ  
    考察コウサツ 明応メイオウ政変セイヘン以降イコウ山城ヤマシロクニ    
    成果セイカ課題カダイ 今回コンカイ講読コウドク範囲ハンイ史料シリョウシュウ採録サイロクされている記録キロク最後サイゴで、時期的ジキテキには明応メイオウ政変セイヘンにあたるが、この時期ジキ政治セイジ軍事グンジ情勢ジョウセイ反映ハンエイした興味深キョウミブカ記事キジスクなくなく、トク守護シュゴによる山城ヤマシロクニシャリョウの「オン公領コウリョウなどについて議論ギロンとなった。当時トウジ上野ウエノショウ在地ザイチ様子ヨウスシメすものもあり、「シモカツライマ在家ザイケ」の存在ソンザイ、「一円イチエン新興行」、「ショウ年貢ネング」・「一方代官職」・花田ハナダの押領などが話題にのぼったほか、上野との関係が窺える下桂の中路氏が「御料所御代官」として見えるため、上記の「御公領」ウゴきともカカわって議論ギロンされた。また、記録187に関し、給主職補任についての先行研究の不審点を克服する解釈が議論された。注目チュウモク記事キジ考察コウサツでは、明応メイオウ政変セイヘン山城ヤマシロクニをめぐる政治セイジ情勢ジョウセイカンして、トクに「寺領ジリョウホンフク」とされた半済免除をめぐる将軍ショウグンヨシ細川ホソカワ京兆家、赤沢アカザワソウエキらの動向ドウコウ整理セイリされ、京兆専制論へのコメントもなされた。考察コウサツとしては上野荘に即して具体的な検討が不十分だったのが課題であるが、これをまえて当時トウジ政治セイジ軍事グンジ情勢ジョウセイ上野ウエノショウ状況ジョウキョウとを関連カンレンさせた議論ギロンがなされた。明応メイオウ文亀ブンキ永正エイショウ年間ネンカンハンスミや押領などの問題モンダイ直面チョクメンするナカで、東寺トウジ支配シハイは後退していったという趨勢スウセイ想定ソウテイされたが、上野ウエノショウカンする最後サイゴ引付ヒキツケ記事キジに「庄屋ショウヤ」がえることはまさに中世チュウセイから近世キンセイへの移行イコウ象徴ショウチョウした記事キジだとえるだろう。なお、この北村キタムラ彰裕君によって、史料集に未収録の「上野」ないし「上桂」が見える史料が、壬生家文書や室町幕府政所賦銘引付などから複数紹介され、なかには「上桂」と「上野」とを別個のものとして併記しているものも見られた。
  下村シモムラシュウ太郎タロウ 総括ソウカツ        
本年ホンネン全体的ゼンタイテキ所感ショカン        
カミカツラショウカミショウ領域リョウイキカンする知見チケンられた。洪水コウズイ河道カワミチ変遷ヘンセンによるキワめて流動的リュウドウテキ領域リョウイキ対岸タイガン梅津ウメツショウ千代チヨハラショウ存在ソンザイする散在サンザイルイ上野ウエノカミカツラ寛正カンショウネンには各別カクベツ集落シュウラクとして存在ソンザイ現地ゲンチ巡見ジュンケン土地勘トチカン有意義ユウイギなものになった。
・河川や用水をめぐる環境カンキョウ災害サイガイ、あるいは技術史ギジュツシ生活セイカツする史料シリョウ観察カンサツされた。洪水コウズイ氾濫ハンラン、それにトモナ農業ノウギョウ被害ヒガイカワ)、治水チスイ利水リスイトク井堰イセキ構築コウチク修理シュウリカタ領主リョウシュ在地ザイチにとっての治水チスイ利水リスイ
中世チュウセイ荘園ショウエンキョウ近郊キンコウ荘園ショウエン)・村落ソンラク状況ジョウキョウ東寺トウジ荘園ショウエン支配シハイについて、十四14十六16世紀セイキ動向ドウコウ室町ムロマチ荘園制ショウエンセイカタ趨勢スウセイ)を俯瞰フカンできた。室町期の政治体制(幕府の奉行人制度や守護制度など)や、南北朝内乱や応仁・文明の乱、明応メイオウ政変セイヘンといった軍事情勢との連関もウカガえた。
中世チュウセイ在地社会のショソウ、その特質トクシツ変遷ヘンセンカンガえるための史料シリョウ観察カンサツされた。用水ヨウスイソウロンにおける村落間の結合・競合・交渉コウショウなど。検断について興味深い事例ジレイが多かった。
東寺トウジ寺院ジイン組織ソシキ寺院ジイン運営ウンエイ寺領ジリョウ支配シハイにおける上桂カミカツラショウ位置付イチヅけ。いわゆる膝下シッカ荘園ショウエン特質トクシツ展開テンカイ
史料シリョウシュウ校訂コウテイもある程度テイドできた。その一方イッポウ、(たとえ「上桂カミカツラ」「上野ウエノ」という文字モジがなくても)関係カンケイ史料シリョウサラ存在ソンザイする可能性カノウセイ浮上フジョウ
   
    (文責ブンセキ・ゼミ幹事カンジ下村シモムラシュウ太郎タロウ)           
2007年6月9日 東寺宝物館にて