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4月9日 |
下村周太郎 |
ガイダンス |
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*テキスト |
昨年は上島有編『山城国上桂庄史料 上巻』の「文書」を最初から読み始め南北朝初期まで読み進めた。本年度は上桂荘の研究に一区切りを付けるために、南北朝期から戦国期を主対象とする。そこで、テキストを、南北朝期から戦国期の引付の記事などを収録する『山城国上桂庄史料 下巻』の「記録」をテキストとする。なお、その他、同史料集上・中・下巻に収録されている「文書」や、同史料集未収録の関連史料については適宜、報告者が報告の中で取り上げる。 |
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*進め方 |
毎回、報告者は割り当てられた担当範囲について、校訂→内容説明→注目記事試訳・語釈→考察、の順に報告する。校訂は写真帳「東寺百合文書」により行う。内容説明は、全般に簡潔にまとめ、ゼミで出た課題に関わるもの、研究史・学説史や学界の研究動向上問題となるもの、自分の問題関心にひっかかるものを中心に説明する。考察では、報告者の裁量の幅を広く見、担当した範囲の史料の中から、自分の問題関心や学界の研究動向、上桂荘の研究史などに関わった論点を各自で見出し、自身のオリジナリティや研究史上・学説史上の意義といったものを意識した考察を目指す。将来論文として発表することや、自分の修論・博論に繋げることも目標とする。 |
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*課題 |
昨年度から引き継がれた課題の一つは、複雑に錯綜する伝領関係の全貌を明らかにすることである。しかし、史料的制約があるのみならず、特に上桂荘の領有をめぐる相論においては、自身の正当性を主張する訴訟当事者が多数に上り、各人が自らの主張を正当付ける証拠を持ち出してくるのが大きな問題である(当事者主義という中世社会の性格を如実に反映している)。ただ、本年度のゼミの真骨頂はむしろこの相論に最終的な幕が下り東寺の一円支配が確立した後である。東寺の一円支配が確立した後(室町期・戦国期)の上桂荘に関する専論は決して多くなく、研究素材としての可能性は未知数といって。参照・踏襲すべき先行研究が少ないだけに報告者の技量が試されるが、ゼミの中から最新の研究≠ェ生まれるか否か、ゼミの真価が試されている。なお、近隣の久世荘については比較的研究がある。西岡十一箇郷は桂川からの引水により農業用水をまかなっており、共同して水路の維持管理などがなされていたことから、上桂荘の研究の空白を久世荘の研究により少なからず補えるものと考えられる。また、今年度は実際に現地の巡見も行うので、昨年度課題とされた「荘園の空間的把握(水利や検地帳の検討など)」についても切れ込んだ報告がなされることを期待する。桂川の河道変遷や水利を記した差図に関する歴史地理的・景観論的研究は少なくないので参照されたい。 |
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※この他、年間スケジュールの確認や、上桂荘に関する概説などを行った。 |
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喜多泰史 |
卒論報告 |
「平安期の古文書に見る『衙』」 |
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4月16日 |
下村周太郎 |
ガイダンス・続(上記「ガイダンス」参照) |
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植田真平 |
卒論報告 |
「十五世紀内乱期の鎌倉府・古河公方奉行衆の変遷について」 |
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青田有美子 |
卒論報告 |
「承久の乱前後の朝幕関係」 |
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4月23日 |
岡山宣孝 |
卒論報告 |
「藤堂高虎の『徳川初期政権に於いて果した役割』と『係わった城』」 |
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東田英司 |
卒論報告 |
「信長と朝廷」 |
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5月6日 |
下村周太郎 |
担当範囲 |
1 |
康永三年(1344) |
学衆方評定引付 |
天地之部1 |
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〜 |
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12 |
貞和五年(1349) |
学衆方評定引付 |
ム22 |
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注目記事 |
2 |
学衆方評定引付 |
康永三年十一月二十三日条 |
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12 |
学衆方評定引付 |
貞和五年七月十五日条 |
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考察 |
上桂荘の宗教世界―松尾社と三宮社を中心に |
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成果と課題 |
考察では、上桂荘関係史料に見える二つの神社、松尾社と三宮社について検討した。西岡諸郷では松尾社は桂川用水の取水口に鎮座する神として認識され、水源ないし井堰に位置する水の神として信仰されていた、特に、道我が上桂荘の祈祷として松尾社の神楽を行っていたことから、西岡諸郷の結合が形成される以前の鎌倉後期、上桂荘を開発・支配した道我は松尾社を水利の神として重視していたと考えた。また、三宮社については、桂川河岸地域一帯(現西京区・右京区)に複数存在することを確認し、この地域におけるいわば「三宮信仰」と言うべきものの存在を想定した。ただ、三宮信仰の具体的な中身については「水」に関わる三神が祭られたと言う可能性を指摘するに止まった。さらに、桂川用水を媒介にした西岡地域における村落間結合の形成過程や史的特質の解明などについては、本年度全体を通じての課題となったと言える。史料講読においては、門指の訴訟についての記事である記録12の二月二十八日条が、門指の実態を知る上で有効な史料ではないかとの指摘があった。 |
5月14日 |
小林美里 |
担当範囲 |
13 |
貞和五年(1349) |
学衆方評定引付抜書 |
天地之部6 |
5月21日 |
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〜 |
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(補足) |
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20 |
文和元年(1352) |
学衆方評定引付抜書 |
天地之部6 |
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注目記事 |
14 |
学衆方評定引付 |
観応元年六月三日条 |
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考察 |
井料と年貢未進 |
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成果と課題 |
上桂庄史料には井料に関する史料が相当数存在するが、考察では伊藤一義氏や稲葉継陽氏の議論を踏まえ、この井料と年貢未進の関係を検討した。井料や新井料は在地にとって不可欠なものである一方で、大きな負担でもあり、この在地負担が年貢未進につながる悪循環をもたらしたと指摘した。そして、こうした状況は、洪水による井溝の修理が常に問題となるという桂川流域の地理的条件に規定されていることを想定した。ゼミ中は、注目記事の中の「此外至来秋、加利分等、不可立用」の「利分」や「立用」が具体的に何かをめぐって議論になった。 |
5月21日 |
貫井裕恵 |
担当範囲 |
21 |
文和二年(1353) |
学衆方評定引付 |
ム27・天地之部55 |
6月4日 |
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22 |
文和三年(1354) |
学衆方評定引付 |
ム28 |
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195 |
東宝記(第六法宝下) |
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196 |
東宝記(第七僧宝上) |
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注目記事 |
195 |
東宝記(第六法宝下) |
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考察 |
東寺における法会と後宇多院東寺興隆政策 |
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成果と課題 |
195・196について国宝本清書本、同草稿本によって校訂した。そのうち、注目記事として取り上げた196の中の「論義衆十人、内学衆八人」の解釈が議論となり、「論義衆十人内、学衆八人」と読むのが適当ではないかという意見が出た。考察では、橋本初子氏や上島享氏の議論を踏まえながら、康永三年に始まり早くも文和三年に行われなくなった東寺の法会の一つである五日十座論議に着目して、後宇多院の東寺興隆事業の特質について論じた。五日十座論議の行われた場である御影堂は東寺の主体的法会の場であることを確認した上で、東寺が行う御忌のうち論義講を行うのは後宇多院のそれのみであることなどに注目し、五日十座論議が院政期に法勝寺御八講で行われていたことを踏まえ、後宇多院の東寺「御願寺」化の指向性を指摘した。また、それが観応・文和の動乱などを経ることで退転したことも指摘した。ゼミではこの考察を踏まえ、院政期と南北朝期の顕密体制の相違とは何かや、東寺においてどのような法会が継承され、また逆に退転したのか、などより大きな問題の所在が議論された。 |
6月4日 |
青田有美子 |
担当範囲 |
23 |
文和四年(1355) |
学衆方評定引付 |
ム29・天地之部7 |
6月18日 |
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〜 |
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26 |
延文四年(1359) |
学衆方評定引付 |
ム36 |
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注目記事 |
23 |
学衆方評定引付 |
文和四年九月十四日条 |
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考察 |
東寺と西山法花山寺浄土院との相論 |
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成果と課題 |
注目記事や考察について、上桂荘をめぐる東寺と西山浄土院の相論に関わった仁木氏や伯々部氏の立場が議論になった。すなわち、西山浄土院はすぐ北に丹波と山城とを結ぶ軍道として利用された唐櫃越が、南に山陰道が存在し、尊氏の陣も置かれたところであるが、仁木氏が幕府執事である一方で丹波守護であり、伯々部下丹波の土豪で丹波の山陰道の合戦に参加していることなどから、この相論における仁木氏や伯々部氏の位置付けが問題になったのである。 |
6月9日 |
春合宿 |
9日 |
東寺文書閲覧(東寺宝物館)・東寺境内見学 |
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〜 |
10日 |
葛野大堰・上桂荘故地周辺巡見 |
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6月11日 |
(@京都) |
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※桂川用水沿いに北から南に向かって巡見した。巡見コースは以下の通り。渡月橋(中ノ島公園)集合→葛野大堰・一ノ井堰→松尾大社→石堂口→今井取水口故地→上桂御霊神社→今井・高羽井分水地点→川島春日社→川島三宮神社→西山御坊前→桂地蔵→下桂御霊神社→桂離宮周辺を経て桂駅解散、懇親会 |
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11日 |
教王護国寺文書閲覧(京都大学) |
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謝辞: |
9日は、東寺宝物館の新見康子さんはじめ、東寺宝物館の方々に大変お世話になった。大人数での文書閲覧は東寺史上初という、特段のご高配を賜った。10日は、立命館大学の大山喬平さん・三枝暁子さん、向日市文化資料館の玉城玲子さんにご案内いただいた。また、東京大学史料編纂所の高橋敏子さん・遠藤珠紀さん、南カリフォルニア大学のピジョーさんご夫妻、立命館大学の杉橋隆夫さん・杉橋ゼミの院生の皆さんにもご同行いただき、大変充実した巡見となった。11日は、京都大学の早島大祐さんに大変お世話になった。各位に衷心より感謝申し上げたい。 |
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参加者: |
海老澤衷先生・清水克行・徳永健太郎・宮崎肇・高橋傑・守田逸人・西尾知己・高橋裕美子・大澤泉・中島昌治・北村彰裕・玉井景子・松澤野絵・後藤麻衣・小林美里・貫井裕恵・野村和正・青田有美子・植田真平・岡山宣孝・喜多泰史・下村周太郎 |
6月18日 |
岡山宣孝 |
担当範囲 |
27 |
延文四年(1359) |
学衆方評定引付抜書 |
ル56 |
6月25日 |
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〜 |
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34 |
貞治三年(1364) |
学衆方評定引付 |
ム40・ル60 |
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注目記事 |
27 |
学衆方評定引付抜書 |
延文四年条 |
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考察 |
京都盆地の地形・桂川(大堰川)・当時の気象状況 |
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成果と課題 |
今年度の講読史料には、上桂荘が桂川の洪水や河道変遷の影響を強く受けていたことが窺える史料が豊富に見出される。考察では、上桂荘を考える上で無視できない上桂荘を取り巻く自然環境を問題として取り上げ、@京都盆地の地形、A桂川の河道変遷、B延文・貞治年間の気象状況について検討を加えた。ただ、上桂荘に直接関連する史料の利用が不十分であったため、一般論的な指摘にとどまった。上桂荘の史料に即した具体的・実証的な検討が課題となった。史料講読では、下司職をめぐって登場する是南や栄済の立場や性格が話題になった。また、「完用途」と見えるものが「肉用途」と同じなのか(「完」ではなく「宍」?)も話題になった。 |
6月25日 |
植田真平 |
担当範囲 |
35 |
貞治五年(1366) |
学衆方評定引付 |
ム42 |
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〜 |
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44 |
永和元年(1375) |
学衆方評定引付 |
ラ8 |
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注目記事 |
37 |
学衆方評定引付 |
貞治六年七月三日条、同四日条、同十月六日条 |
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考察 |
下司の「私検断」と東寺の対応 |
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成果と課題 |
考察では、注目記事に見える貞治六年の検断事件について取り上げ、特に、検断を行った下司是妙が東寺から「私検断」として問題とされた事実に注目しながら、上桂荘における下司や東寺の荘園支配の変化について論じ、この一件が下司秦氏の衰退や東寺の直務支配強化の要因となったと指摘した。史料集には上桂荘における検断事件が複数見られ、研究史に照らしても興味深い事例が少なくないが、これ以降のゼミではそれぞれの事件から分かる検断の内実や特質、その変遷について関心が高まりしばしば話題になった。史料講読では、記録40の二月二十八日条に見える「御訪」の内容や性格について議論になった。 |
7月2日 |
東田英司 |
担当範囲 |
45 |
永和二年(1376) |
学衆方評定引付 |
ラ9 |
7月9日 |
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〜 |
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(補足) |
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62 |
応永十一年(1404) |
廿一口年預記 |
追加之部3 |
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注目記事 |
50 |
学衆方評定引付 |
至徳二年九月二十九日条 |
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考察 |
四辻宮親王の寄進と譲与 |
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成果と課題 |
注目文書では、大林家春が上桂荘の領家職を主張して東寺と裁判になったことが分かる。上桂荘の伝領関係が極めて複雑であり、それに伴って鎌倉後期から南北朝期にかけて頻繁に相論が展開したことは先行研究でも取り上げられているところであり、昨年度のゼミでの中心的な問題でもあった。今回の相論もその余波の一つだが、考察では複雑な伝領関係を招く大きな要因の一つとなった四辻宮親王の寄進・譲与を問題とし、現代法の一物一権主義や物権法定主義などと比較しながら、中世の法や裁判の特質を考えることを試みた。法や裁判、また「所有」をめぐって、史料に即したより具体的で詳細な検討や、理論的な問題の追究が課題となった。史料講読では、上野荘に名主職を保持していると見られる六条道場について話題になった。この頃からゼミでは、上野荘の名主職の一部を東寺以外の寺院や近隣の領主が保持しているとの認識が高まり、東寺の上野荘支配がどの程度貫徹していたものなのかが注意されるようになった。 |
7月2日 |
後藤麻衣 |
担当範囲 |
63 |
応永十二年(1405) |
廿一口方評定引付 |
く2 |
7月9日 |
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〜 |
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75 |
応永十五年(1408) |
廿一口方引付条目大概目安 |
追加之部13 |
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注目記事 |
73 |
廿一口方評定引付 |
応永十四年条 |
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考察 |
快舜の逐電について |
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成果と課題 |
今回の講読範囲では、在地における水害発生時の対応や、その後の復旧作業(「伏井埋」など)が窺える史料が多かった。史料講読では、記録74に見える「井埋」が何かが話題となった(以後史料に散見されるが、後期になって一つの見通しが得られる)。注目記事の「井口馳塞」という表現の解釈なども議論になった。「井水興行」(文書452)という言葉に関しては、その規模、為政者や荘園領主の関与の有無などが議論となった。また、記録63の十月二十八日条の読みが議論となり、引付という史料の独特な記述の仕方について改めて注意が促された。考察では、大量の負債を抱え逐電した快舜について取り上げ、藤木久志氏の逐電の議論などを踏まえながら、快舜の逐電が負債の追求を逃れるための積極的な措置であったと指摘した。注目記事では快舜逐電後の後家の扶持などについても話題になっており、より様々な観点から逐電の諸相を検討し、研究史の更新を目指す必要があろう。 |
7月9日 |
喜多泰史 |
担当範囲 |
76 |
応永十七年(1410) |
廿一口方評定引付 |
く5 |
7月23日 |
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〜 |
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(補足) |
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91 |
応永二十九年(1422) |
学衆方評定引付 |
ネ96 |
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注目記事 |
77 |
廿一口方引付条目大概目安 |
応永十八年条 |
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88 |
廿一口方引付条目大概目安 |
応永二十八年条 |
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考察 |
廿一口方評定引付大概目安の性格 |
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成果と課題 |
記録53以降、学衆方引付だけでなく廿一口方や鎮守八幡宮方の引付なども登場するが、各記録の性格を知る上でも、各記録に見える上桂荘関連記事と各記録そのものとの関係などに注意する必要がある。考察ではこのことを踏まえ、廿一口方評定引付大概目安の性格について検討を加え、それが明応六年に年預であった宗承が、応永から応仁までの廿一口方評定引付を「抜書」したもので、抜書を主とするが編集者の宗承の私見も含んでいる事などを指摘した。なぜ、応仁から応永年間が抜書の対象となり、抜書される記事の基準は何だったのか?、また、何を何故「抜書」と言ったのか?、抜書は他にどのくらい作られ、それぞれどのような特徴があったのか?などの質問が出された。史料講読では、記録91・92などに見える上桂荘竹原領有問題(応永二十八・二十九年)が、「公方」や「青蓮院」・「三宝院」などが関与していることから、当該期の政治状況を考える素材となりうるとして議論になった。また、この一件に関し、史料集には採録されていないが、関連する史料として、東寺百号文書や函61号、や函62号が紹介された。 |
7月23日 |
野村和正 |
担当範囲 |
92 |
応永三十年(1423) |
廿一口方評定引付 |
く10 |
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〜 |
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102 |
正長元年(1428) |
廿一口方評定引付 |
ち7 |
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注目記事 |
102 |
廿一口方評定引付 |
正長元年六月二十九日条 |
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考察 |
追放と家財道具 |
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成果と課題 |
注目記事と考察では、正長元年の放火に関わる検断事件が取り上げられた。この事件では、追放(「庄下払」)された犯人の家が検封されるが、興味深いのは、この時に検封された家財道具の内容と「預申」た人物の名が知れるのである(文書408「上野庄検封家屋雑具注文」)。考察では、追放(藤木久志氏の言う「期限付き追放処置」)された人物が還住したときのために、「地下」が一時的に家財道具を預かる習俗があったのではないかと推測した。また、家財道具の中の「やり」や「ゆミ」といった武具の存在にも注意し、村の武力や農耕儀礼における歩射神事などとの関連を想定した。検断によって検封されたものが詳細に分かる事例であるだけに、当時の村落や百姓の問題を考えるためにさらに具体的な検討を進める必要があろう。なお、史料集未収録だが「上野損亡事」が見える史料として『廿一口供僧方評定引付』応永二十三年八月中雑々公事(く函12号)が紹介された。 |
8月26日 |
夏合宿 |
修士論文構想報告 |
〜 |
8月28日 |
(@軽井沢) |
報告者: |
岡山宣孝・植田真平・東田英司・青田有美子・後藤麻衣・貫井裕恵・小林美里・田村仁 |
10月1日 |
野村和正 |
担当範囲 |
103 |
永享三年(1431) |
廿一口方評定引付 |
ち8 |
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|
〜 |
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113 |
永享八年(1436) |
廿一口方評定引付 |
く15 |
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注目記事 |
104 |
廿一口方評定引付 |
永享四年二月二十七日条 |
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考察 |
永享年間の上野庄の灌漑事業について |
|
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成果と課題 |
史料講読では、記録108に見える「節原」が注目された。梅津にあるとされており、当時の上野荘の荘域や桂川の河道を考える材料となりうるからである。節原の表記は区々だが(現在は罧原)、以後散見されたびたび話題になった。また、後期の講読範囲ではしばしば室町幕府発給文書などが見られるようになるが、差出・宛所にある奉行人や守護の立場などをめぐって議論になった。考察では、永享年間の灌漑事業が取り上げられ、度重なる洪水と用水の破損により、東寺が寺家の力による灌漑整備を諦め、革嶋氏など寺官ではない在地の有力者を代官に補任することで再開発を目指すようになっていったと論じた。詳細な検討は今後の課題となったが、室町期の上野荘支配の変質を考えるための一つの見通しが得られた。 |
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松本精一 |
講演 |
「京都桂川の農業水利」 |
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10月15日 |
中島昌治 |
担当範囲 |
114 |
永享八年(1436) |
鎮守八幡宮供僧評定引付 |
ワ51 |
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|
〜 |
|
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127 |
文安三年(1446) |
廿一口方評定引付 |
く18 |
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注目記事 |
120 |
廿一口方評定引付 |
嘉吉元年閏九月二十三日条 |
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|
考察 |
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成果と課題 |
注目記事をはじめ、この前後で上野荘代官として寺崎玄雅が現れるが、先行研究なども踏まえて玄雅の性格が話題になった。特に、記録122・126・127などでは、上野荘支配をめぐる玄雅の借銭の返還が問題となっているが、ここでの貸借の流れが話題となり、特に「伝借」(記録122)という表現の解釈などが議論になった。また、永享十一年の桂川用水石道口をめぐる相論について、特に文書437・438・439の流れが議論され、史料集では「東寺申状案」とされている文書438については、東寺雑掌申状である文書437に対する相手方の反駁の申状であることが想定された。加えて、この文書437や438が玄雅筆の案文であるとの知見も示され、玄雅が自らの活動について書いた内容であると考えられた。この玄雅の時期の借銭問題や用水相論は、当該期の上野荘や用水、また東寺の荘園支配の在り方を考える上で興味深い事例であったが、史料の読み込みが不十分で議論が深め切れなかったのが課題として残った。なお、この時期から守護や段銭、幕府関係の記事も少なくなく、以後ゼミでもしばしば話題にのぼったが、記録118では、山城国守護赤松氏の守護使(あるいは東寺担当守護奉行人カ)と思われる人間の名前(「中山方」)が見え議論になった。 |
10月22日 |
貫井裕恵 |
担当範囲 |
128 |
文安四年(1447) |
廿一口方評定引付 |
く19 |
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|
〜 |
|
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|
141 |
康正二年(1456) |
鎮守八幡宮供僧評定引付 |
る62 |
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注目記事 |
128 |
廿一口方評定引付 |
文安四年十二月二十四日条 |
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考察 |
寺崎玄雅をめぐって |
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成果と課題 |
担当範囲では給主職についての史料が多かったが、上野荘の預所職・給主職について議論になった。預所職から所務が切り離されて給主職になったとする伊藤一義氏の見解があるが、報告ではそれぞれを別個の相互に連動するものではないかとの解釈が示された(給主=供僧クラス、預所=寺官クラス)。史料用語と分析概念とを区別した上で、改めて史料に見える表記や任命された人物の地位などを総合的に検討していく必要性が確認された。また、上野荘の名主職を持つものとして、長国寺、梅宮別当中野氏、西芳寺などが見え、上野荘には東寺以外にも荘外の様々な有力者が権益をもっていた様子がいよいよ明らかになってきたが、玄雅との関連も窺えるなど興味深い史料が少なくなかった。また、前回に引き続き松尾社も絡んだ用水相論が展開している時期であり、この時期の相論の流れが議論された。記録137には「松尾之升」など升に関するやり取りが見られ話題になった。注目記事や論点では、ここ数回のゼミで話題になっていた寺崎玄雅について取り上げられ、富田正弘氏・上島有氏・阿諏訪青美氏らの研究も踏まえながら、交渉能力や実務能力に長けたその多様な人物像が明らかにされた。討論では、玄雅没後の後家や代官職の行方についても注目され、相伝によらない代官職の性格など室町期の荘園支配を考える上で興味深い事例であることが確認された。 |
10月29日 |
後藤麻衣 |
担当範囲 |
142 |
長禄元年(1457) |
廿一口方評定引付 |
く21 |
11月5日 |
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注目記事 |
142 |
廿一口方評定引付 |
長禄元年七月八日条 |
|
(補足) |
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考察 |
東寺と権門の口入について |
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成果と課題 |
担当範囲では、寺崎玄雅や梅宮執行中野賢祐らの上野荘の代官職改替や名主職買得をめぐり、将軍、細川阿波守護家(成之)、幕府奉行人、将軍とも関係が深い山門法師の光聚院猷秀らを巻き込んだ複雑な事態が惹起しており、事実関係や人間関係について議論になった。考察では、この一連の事態における権門の口入について、伊藤俊一氏の研究も踏まえて整理・検討され、玄雅の代官職罷免に際し東寺が光聚院を頼ったのに対し、玄雅が細川氏を頼るなど、複雑な対抗関係があったことが明らかにされた。また、東寺が公人クラスの人間の解任さえ寺内で処理できないという東寺の自治機能の低下や、玄雅が細川成之を頼った背景に東寺雑掌であった玄雅と細川阿波守護家被官との関係や垂水荘や新見荘での細川氏の口入成功事例などがあったのではないかと論じた。討論では、この一件に関わった個々の人物や人間関係の詳細について関心が集まり、特に光聚院の政治的立場などがどのようなものであったのかが課題となった。なお、史料講読では「指出」や「連署置文〈強文〉」、「五剋」などが話題になった。 |
11月5日 |
論点の出し合い |
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11月12日 |
青田有美子 |
担当範囲 |
150 |
寛正元年(1460) |
廿一口方引付条目大概目安 |
追加之部13 |
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151 |
寛正二年(1461) |
廿一口方評定引付 |
く24 |
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注目記事 |
151 |
廿一口方評定引付 |
寛正二年正月二十二日条 |
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考察 |
屋敷の検封 |
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成果と課題 |
史料講読では、上野荘の荘域などについて考える上で興味深い点がいくつかあった。記録151に見える「鳥原」については関連史料が集められ、宝寿院領桂中荘が千代原(=鳥原)とも号されており、その中に上野荘の「類地」が「散在」していたようである。また、(現在は桂川によって完全に両岸に分離している)梅津荘と上野荘との間に境相論があったことや、上野荘の名主職保持していると思われるものとして養源院(山門末寺とされ光聚院との関係も存在)・廊御局・正覚院などが見え、長福寺の関与も窺えるなど上野荘の利権が複雑であったことなどが知れる。他には、記録151に見える上野荘の願果論議についても議論が及び、願果論議が行われるのは特定の時期に限られており、その時期には桂川用水や山城国などについての幕府文書も発給されていることから、膝下荘園の経営などに関わる政治的に重要な動向と連関してなされている可能性が指摘された。注目記事や考察では、寛正二年に上野荘内鳥原で発生した殺害事件が取り上げられた。この事件は発生箇所が宝寿院領千代原内の上野荘類地で起こったため、検断の主体をめぐって東寺と宝寿院とが争うなど興味深い検断事件であるが、考察では屋敷の検封に関して「犯罪=穢れ」をめぐる研究史に対してコメントがなされた。先行研究へのコメントであったため一般論的な記述が中心となったが、史料の内容も豊かなので個別事例として詳細に検討し、上野荘(東寺領)における検断の在り方についてより具体的な議論を積み重ねていくことが課題となった。 |
11月19日 |
小林美里 |
担当範囲 |
143 |
長禄元年(1457) |
廿一口方引付条目大概目安 |
追加之部13 |
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〜 |
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149 |
寛正元年(1460) |
廿一口方評定引付 |
く23 |
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注目記事 |
149 |
廿一口方評定引付 |
寛正元年八月二十九日条 |
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考察 |
杲覚期の上野庄給主職について |
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成果と課題 |
史料講読では、記録146の七月二十二日条の「中野下地ハ限河云々、然者河之北端マテハ中野可知行、河以下南ハ、可為各別之由、可加下知云々」などが、上野荘の荘域や知行の実態を知る上で重要な史料として注目され、その解釈も含め議論がされた。また、今回の講読範囲には、上野荘に関わる地名として「中庄」や「罧原」が見られた。考察では、上野荘給主職についてとりあげ、伊藤一義氏が遷代の職としているのに対し、長禄年間の杲覚以降、宝生院に付属し相伝の職となっていったと指摘し、杲覚就任時に上野荘給主職の性格が確立したと論じた。討論では、長禄四年の杲覚の上野荘預所職条々請文(文書581)の記載内容との関連が議論された。なお、記録146には「徳政」に関わる記事があったが、議論が及ばなかった。 |
11月19日 |
植田真平 |
担当範囲 |
152 |
寛正二年(1461) |
廿一口方引付条目大概目安 |
追加之部13 |
11月26日 |
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〜 |
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155 |
寛正四年(1463) |
廿一口方引付条目大概目安 |
追加之部13 |
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注目記事 |
154 |
廿一口方評定引付 |
寛正四年四月二十九日上野荘両代官連署書状 |
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考察 |
松尾御前淵用水相論と上野荘 |
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成果と課題 |
担当範囲には、土一揆や御成段銭などの史料が若干だが存在し、この時期の政治体制や社会状況を考える上で参考になる。ただ、今回の範囲の多くを占めるのが、著名な寛正年間の松尾御前淵用水相論の関係記事である。注目記事や考察ではこの寛正年間の相論について改めてその背景や経過、また上野荘の位置が指摘された。また、あわせて、応永以降の上桂荘関連の用水相論の年表の作成や、指図史料なども踏まえた各段階での用水路の復元が試みられ、議論のための下地が用意され有意義であった。上野荘そのものは登場しないことから史料集にも収録されていないが、松尾御前淵用水などをめぐる西岡と松尾との相論に関する史料も紹介された。ただ、この相論でしばしば問題となった「井」の「相博」とはどのような実態をさすのかなど、疑問も生じた。なお、記録154などでは上野荘の名主職保持者として新たに松厳寺も登場するが、それと関わって十一月十三日条に見える「カウハサマ」(史料集では「申ウハサ□」と読んでいる)は河間という人物をさすのではないかとの指摘もあったが、詳細は分からず課題として残った。 |
11月26日 |
喜多泰史 |
担当範囲 |
156 |
寛正五年(1464) |
廿一口方評定引付 |
ち18 |
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〜 |
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159 |
寛正六年(1465) |
廿一口方評定引付 |
け17 |
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注目記事 |
158 |
鎮守八幡宮供僧評定引付 |
寛正五年十二月二十七日条A |
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考察 |
免除を旨とした将軍御判御教書と奉行人連署奉書の効力 |
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成果と課題 |
担当範囲には、後土御門天皇即位に関わる段銭・棟別銭や、畠山義就と畠山政長との軍事衝突に際しての陣夫や要脚段銭についての賦課・免除に関する史料が複数あり、当該期の政治・軍事状況(「制札」獲得に関する記事もある)や上野荘内の様子を知る上で興味深い内容を含んでいる(記録159によれば、上野荘の屋敷は七間で、そのうち一間はヤモメである。植松荘の四十八間と比べるとだいぶ規模が小さい。なお、この年は「散在田地損亡」)。考察では、担当範囲に段銭や陣夫役に関して「免除」を旨とする室町幕府文書が複数あることから、室町幕府発給の免除地承認文書の二つの形式である将軍御判御教書と奉行人連署奉書との効力の異同について検討を加え、前者は免除地であることを証明する最重要証文であり、半永久的な効力を有するのに対し、後者は個々の案件に際してその都度発給される一時的な効力しかもっていなかったと論じた。討論では管領奉書との関係などについて質問が出たが、この結論が室町幕府文書論全体の中でいかに位置付くのか今後の課題である。なお、以前から散見されてきた「井里」「井埋」「井利」「井裏」について(記録156には「井口ニ可被立井利」、「溝口仁井裏可伏」などと見える)、近世の指図に見える「ユリ」であり、井口に設置する分水設備であることが議論の中で明確になった。 |
12月3日 |
北村彰裕 |
担当範囲 |
160 |
寛正六年(1465) |
鎮守八幡宮供僧評定引付 |
ね8 |
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〜 |
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168 |
文明元年(1469) |
鎮守八幡宮供僧評定引付 |
ね12 |
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注目記事 |
167 |
廿一口方評定引付 |
文明元年六月十六日条 |
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考察 |
東寺領上野庄と応仁文明の乱 |
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成果と課題 |
史料講読では、前回に引き続き人夫役や段銭の免除に関する記事があり、特に、記録162に見える大奉幣米段銭免除の文書の流れ、それに対する礼銭などについて議論になった。今回の講読範囲では、応仁・文明の乱が勃発したことが大きな出来事であるが、応仁・文明の乱時、上野荘では「伊賀・近江衆」が自領と称して知行(軍事占拠)しており(上野荘は東寺と両国衆の「二重成」、両国衆は東寺に井水料も要求)、この「両国衆」の内実や応仁・文明の乱時の京都近郊での軍勢の活動などが議論になった。応仁・文明の乱における西岡での動向については、久世荘を中心に酒井紀美氏の専論があるが、考察では、乱時の上野荘での動向について具体的かつ詳細に検討が加えられ、免除の奉書を得るだけで良しとする東寺に対し、免除の奉書がほとんど効果をなさなかった現地上野の現実(両軍からの兵糧米賦課、半済、庄家焼失、米一粒も無し、逃散など)が明らかにされた。なお、これまでのゼミでも話題となっていた上野荘の荘域に関しては、記録166に梅津荘にある上野荘内の田として「附子原(フシハラ)」が見えるほか、文書604に「千代原与上野之間二里二ヶ所在之〈一ハ号上桂、一ハ号御庄〉」とあることが指摘され、この時期には上野と上桂が異なる集落であり、また研究史上で問題となっていた「御庄」も一つの里であることが確認された。 |
12月10日 |
大澤泉 |
担当範囲 |
169 |
文明二年(1470) |
廿一口方評定引付 |
ち19 |
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〜 |
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180 |
文明十七年(1485) |
鎮守八幡宮供僧評定引付 |
け41 |
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注目記事 |
171 |
廿一口方評定引付 |
文明四年十二月二十一日条 |
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171 |
廿一口方評定引付 |
文明四年十二月二十三日条 |
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考察 |
上野庄代官の罷免の経緯について |
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成果と課題 |
講読範囲では、前回に引き続き、応仁・文明の乱時の動向が中心的な話題となっている。話題は豊富だが、特に、足軽四分一が賦課されたこと、乱終息後、法会や所領の「興行」が多く見られることなどに注目が集まった。山名政豊から申し入れがあったという「裏成」については課題として残った。政治史関連だと、東山山荘の御普請が賦課されたことなどが知れる。注目記事と考察では、文明四年から文明七年にかけて懸案となった、乗観・乗円上野荘両代官罷免問題について取り上げられた。文明四年に両代官の年貢未進が問題となり、両代官が誉田氏、さらに畠山氏を頼ったのに対し、東寺は大内氏を頼って両代官の罷免・義絶を行ったことが指摘され、文明七年になって東寺が年序を経ていること、また文明四年当時乱世であったことを理由に特別に赦免している点に注目した。討論では、大内の立場や、誉田・畠山に頼って罷免を回避しようとするこの時期の代官の特質などが議論された。 |
12月17日 |
東田英司 |
担当範囲 |
181 |
文明十八年(1486) |
鎮守八幡宮供僧評定引付 |
け41 |
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〜 |
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186 |
延徳三年(1491) |
廿一口方評定引付 |
天地之部45 |
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注目記事 |
183 |
廿一口方評定引付 |
長享二年四月二十八日条B・C |
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考察 |
参照される引付 |
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成果と課題 |
講読範囲の中で、政治的な話題として注目されたのは内裏と東山両方の普請が課せられていることである。また、用水関係では「井リ」(以前の議論を踏まえ「圦(いり)」であることが確定)のほか、「シカラミ」や「川ヨケ」も見られた。さらに、記録186などにおける融盛の給主補任問題について、融盛の「未出仕之仁」という立場が議論となった。他にも名主職保持者と見られる「北御所」や、記録184などで「振舞」されている「葉室代官山口」や「コモフチ(薦淵)」が誰かや、記録184で土一揆と関連して見える「郷駆沙汰」とは何かなどが問題となった。注目記事では長享二年の検断事件が取り上げられたが、考察では、その際の東寺の対応として見える「引付撰之処、応永丗五年引付委細見」という文言に注目し、応永三十五年の一件の内容と長享二年のそれとを比較して、あくまで両者の事件の内容は異なっており、引付の照会において重要であったのは結論部分であって、結論に至る過程はさほど重要ではなかったと論じた。 |
1月21日 |
岡山宣孝 |
担当範囲 |
187 |
明応二年(1493) |
廿一口方評定引付 |
ち26 |
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〜 |
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194 |
永正九年(1512) |
廿一口方評定引付 |
ち27 |
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注目記事 |
189 |
鎮守八幡宮供僧評定引付 |
明応九年十月十七日条 |
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考察 |
明応の政変以降の山城国 |
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成果と課題 |
今回の講読範囲は史料集に採録されている記録の最後で、時期的には明応の政変後にあたるが、この時期の政治・軍事情勢を反映した興味深い記事が少なくなく、特に守護による山城国寺社領の「御公領」化などについて議論となった。当時の上野荘の在地の様子を示すものもあり、「下桂今在家」の存在、「一円新興行」、「小年貢」・「一方代官職」・花田の押領などが話題にのぼったほか、上野との関係が窺える下桂の中路氏が「御料所御代官」として見えるため、上記の「御公領」化の動きとも関わって議論された。また、記録187に関し、給主職補任についての先行研究の不審点を克服する解釈が議論された。注目記事や考察では、明応の政変後の山城国をめぐる政治情勢に関して、特に「寺領本復」とされた半済免除をめぐる将軍義澄や細川京兆家、赤沢宗益らの動向が整理され、京兆専制論へのコメントもなされた。考察としては上野荘に即して具体的な検討が不十分だったのが課題であるが、これを踏まえて当時の政治・軍事情勢と上野荘の状況とを関連させた議論がなされた。明応・文亀・永正年間、半済や押領などの問題に直面する中で、東寺の支配は後退していったという趨勢が想定されたが、上野荘に関する最後の引付の記事に「庄屋」が見えることはまさに中世から近世への移行を象徴した記事だと言えるだろう。なお、この日、北村彰裕君によって、史料集に未収録の「上野」ないし「上桂」が見える史料が、壬生家文書や室町幕府政所賦銘引付などから複数紹介され、なかには「上桂」と「上野」とを別個のものとして併記しているものも見られた。 |
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下村周太郎 |
総括 |
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◎本年度の全体的な所感 |
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・上桂荘/上野荘の領域に関する知見が得られた。洪水や河道変遷による極めて流動的な領域。対岸梅津荘や千代原荘に存在する散在・類地。上野と上桂は寛正二年には各別の集落として存在。現地の巡見で得た土地勘も有意義なものになった。 |
・河川や用水をめぐる環境史・災害史、あるいは技術史・生活史に資する史料が観察された。洪水・氾濫、それに伴う農業被害(川成)、治水・利水、特に井堰の構築・修理の在り方。領主や在地にとっての治水と利水。 |
・中世の荘園(京近郊荘園)・村落の状況や東寺の荘園支配について、十四〜十六世紀の動向(室町期荘園制の在り方や趨勢)を俯瞰できた。室町期の政治体制(幕府の奉行人制度や守護制度など)や、南北朝内乱や応仁・文明の乱、明応の政変といった軍事情勢との連関も窺えた。 |
・中世在地社会の諸相、その特質・変遷を考えるための史料が観察された。用水相論における村落間の結合・競合・交渉など。検断について興味深い事例が多かった。 |
・東寺の寺院組織・寺院運営や寺領支配における上桂荘の位置付け。いわゆる膝下荘園の特質と展開。 |
・史料集の校訂もある程度できた。その一方、(たとえ「上桂」「上野」という文字がなくても)関係史料が更に存在する可能性も浮上。 |
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(文責・ゼミ幹事下村周太郎) |
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