2007年度TOP画像

2008年1月15日更新・
No.60(2007.12)
 下赤阪の棚田(大阪府千早赤阪村)。2007年11月23日撮影。「日本の棚田百選」に選ばれたこの地は、楠木正成の築いた下赤阪城跡に比定される千早赤阪村立中学校の周辺にある。「楠公誕生の地」にも近い。「楠公産湯の井戸」 があり、これは斜面上の湧水で、すぐ上の平坦面には水田が開けている。写真のように発達した棚田地帯であり、千早川の上流から引水した用水路が開田された尾根上を走っている。棚田開発が尾根に達するのは鎌倉後期であった可能性があり、その細長い水田の中には、楠木氏一族が切り盛りした平坦面も含まれていることであろう。なお、これらの地を眼下に見下ろす上赤阪城跡には中世の城郭遺構が見事に残っている。これとは対照的に、詰城にあたる千早城は戦前に行われた史跡公園化のため、多くの遺構が失われ、復原は難しい。 

12月15日更新・
No.59(2007.11)
 長野県千曲市姨捨の棚田にて。2007年9月16日撮影。15日に千曲市・棚田学会・信州大学田園環境工学研究会の主催で、シンポジウム「姨捨棚田の保存−名勝指定から重要文化的景観選定へ−」が開催され、翌日姨捨棚田の見学会が行われた。この地は、松尾芭蕉の「おもかげや 姨ひとりなく 月の友」という句で知られる名勝「田毎の月」で、史跡としても保存されている。見学会では、杉の巨木で囲まれた弁天の祠へ行き、水源を確認して下り、地元4団体による耕作の実態を視察。信州大学の木村和弘氏のご尽力により、山林、庭園史などの各分野ごとに詳細な解説があった。

11月15日更新・
No.58(2007.10)
 2007年10月7日撮影。田染荘小崎の収穫。日本で水稲文化の儀礼と景観を研究する上で最も適したフィールドの一つ。本年は7月の低温と8月の高温が重なり、天候不順でウンカの発生が甚だしく、稔りは今ひとつ。ただし、地元の豊後高田市は元気で、文化的景観の申請に向けて一歩前進の様子。雨模様の天気も何故か晴れ間が出て、収穫祭は無事終了した。河野了先生宅では、景観保存に尽力された石井進先生供養の会が例年にもまして盛大に催される。

10月15日更新・
No.57(2007.9)
2007年9月4日撮影。バリ島カランガスム県バサンアラス村、スバック・バサンアラスの第2取水口にて。3回目となった早稲田大学テーマカレッジ「日本とバリ島」の現地授業。本年は18名が参加。国内授業を行った後、ウブド王家の研修施設ヴィラ・プラナサンティを使わせていただき、9日間の授業を行う。お供え物作り・ガムラン音楽・絵画・舞踊の実習があり、毎日午前9時に授業日誌の提出を行い、復路成田空港帰着までに2000字のレポートを提出するというハードなものだが、皆余裕の笑顔。朝食時の元気な姿を見ると、ほっとする毎日。
 学生は、海老澤の予想を超える感受性と表現力を示し、バリ島現地授業の教育効果は高い。サポートをしていただいている河合徳枝さん、八木玲子さん、そして現地の講師の方々に改めて御礼申し上げる次第である。

9月15日更新・
No.56(2007.8)
バリ島バサンアラス村のテンペック・ブアリンガの水田。2007年8月1日撮影。テンペックは枝スバックの意味。スバック・バサンアラスの水口から最も遠いところにあり、末端部分であるが、ほぼ完全に開田されている。今回、バサンアラス村の調査を行うとともにウダヤナ大学に赴き、早稲田大学との大学間学術交流協定の覚書(MOU)に、学長I Made Bakta氏のサインをいただく。国際協力担当の副学長I Gede Putu Wirawan氏はかつて名古屋大学に6年間留学していたとのこと。2003年からウダヤナ大学農学部と早稲田大学水稲文化研究所との共同研究を続けてきたが、今年度から大学間の共同研究へと移行する。ウダヤナ大学は、バリ州デンパサールにあり、法学部・経済学部・文学部・農学部・医学部・工学部・理学部等を擁する国立の総合大学。なお、これとは別にデンパサールには国立の芸術大学がある。

8月15日更新・
No.55(2007.7)
 2007年6月10日撮影。京都市「一の井堰(洛水用水)」の洛西右岸西幹線用水路。いにしえの面影を残しつつ民家の軒先を流れる。洛西土地改良区の案内板(54写真の左端)には次のようにある。日本の水利行政を示す好事例であるので全文を挙げる。「一の井堰は、桂川の水を田畑に送るため、古くは5世紀末に設けられたという農業水利施設です。嵐山の水面の風景をつくる礎ともなっています。一の井堰から流れゆく洛西用水は、下流で枝分かれし、今も地域の田畑を潤し続け、京野菜やお米を育んでいます。」桂の人たちが売る野菜は、一の井堰の恩恵を受けていたという解釈である。この地に水利社会論を当てはめることも可能となろう。

7月15日更新・
No.54(2007.6)
2007年6月10日、西尾知己君撮影。京都市嵐山。大学院ゼミで、上島有氏の編纂による『山城国上桂荘史料』を講読しており、その現地見学会。葛野大堰(かどのおおい)の水系は、秦氏の伝承に彩られ、日本における井堰灌漑の基点となるものである。今回、大山喬平先生、杉橋隆夫さん、玉城玲子さん、三枝暁子さんというこの上ない案内者を得て、多くの知見を得ることができた。日本人が苦手とした大規模井堰灌漑の典型をここに見ることができ、中之島を活用する点などは、中国の国家的水利施設である四川省都江堰に共通するものがある。ただし、王権による水利の掌握力が弱く、桂川水系を葛野大堰に一元化することができず(現在ではそれがほぼ達成されているが)、この下流に多くの脆弱な井堰が作られて、共同体が中心となる日本的水利社会の特質を露呈することになった。

6月15日更新・
No.53(2007.5)
 洛陽の近況。2007年3月10日撮影。洛陽市の旧市街地は洛河の北に位置するが、中国新幹線の開業などを控えて、新たに洛河の南に新市街地を建設している。これはそのモニュメントで、城壁と城門がイメージできるようになっている。役所の施設も従来分散していたが、「洛陽市行政服務中心」の新庁舎を造って機能の集中化を図った。日本の区役所・市役所の窓口に似ていて、係員の対応も腰が低い。この建物の近くで「隋唐水利施設」が発掘され、保存されているが、まだ説明板などがない。服務中心文物担当の若い職員に早く説明資料を作ってくれるように申し入れた。

5月20日更新・
No.52(2007.4)
 中国陝西省咸陽市(西安の北隣)にある恵渠の渠首(ダム)。2007年3月7日撮影。黄河の支流として著名な渭水に注ぐ河の上流にある。恵渠は鄭国渠を継承する現代の灌漑施設であり、この渠首には発電所も設置されている。鄭国渠は秦が中国全土の統一を目前にした紀元前246年に韓の鄭国に命じて構築させた水利施設である。約10年の歳月をかけて完成させ、中原地域の農業生産に革命をもたらした。秦帝国の基礎となったこの水利施設は、歴代の統一王朝が大修復を行った。現在では、鄭国が築いた当初の渠首は、河が大幅に河床低下したこともあり、不明であるが、地元では中国古代における三大水利施設として「文物管理所」(文化財管理施設)を建設中である。文物管理所の建設責任者に「鄭国渠は世界遺産にする価値があるのではないか。」と質問してみたが、「陝西省には世界遺産級の文物が多く、難しい」というクールな答えだった。恵渠のダムから1キロメートル程下流に元代、明代の取り入れ口があり、保存されているが、そこから下流は浸食が激しく、鄭国渠の水路は確認できたものの、渠首の位置を明らかにすることはできなかった。

4月30日更新・
No.51(2007.3)
 愛媛県上島町の弓削島にある鯨池公園。2006年3月28日撮影。長い間用水池としての役割を担ってきたが、その使命を終えて池の面影を残しつつ半分は埋め立てられて、公園化された。比較的平坦な場所にあり、さまざまに利用することが可能であるが、地域の人々はこの池の歴史的使命を大切にし、公園として長く保存することを決定した。この地は、塩の荘園として著名な東寺領弓削島荘の故地であり、多くの研究者によってその性格が明らかにされてきた。とりわけ、網野善彦氏によって中世における「非農業民」の活動を如実に物語る荘園として紹介され、日本史研究全体に新たな光が当てられたことは記憶に新しい。そのようなところであっても水田農耕の歴史はあった。この公園は地域の人々が水田農耕に熱烈な思いを託し、長い間生活してきたことを物語っている。3月20日、『講座水稲文化研究V ジャポニカの起源と伝播 伊予国弓削島荘の調査』を刊行することになった。このような水田農耕の跡は少なくても島内に十カ所以上存在したことが今回の調査で判明した。しかし、現在ではこの島に一枚の水田もない。「近代化」の過程の中でさまざまな事情により水田は完全に消滅したのである。そのことは日本の行く末を象徴的に暗示するものでもあろう。

3月15日更新・
No.50(2007.2)
 2004年7月15日撮影。対馬市厳原町豆酘(つつ)の天道法師祠(裏八丁郭)。この地は一面の照葉樹林で、1923年(大正12)に天然記念物に指定された。14世紀から史料上確認され、信仰と在地慣習法と武家法によって守られて近代に至った世界的に見ても貴重な照葉樹林であり、「天道大神」の額を有する鳥居の横にはスダジイの巨木が見えている。2002年、21世紀COEプログラムアジア地域文化エンハンシング研究センターの発足と同時期に、科学研究費基盤研究(B)「東アジアにおける水田形成と水稲文化の研究(日本を中心として)」がスタートして、早稲田大学大学院のスタッフと現地調査を行い、授業で対馬の史料を講読することとなった。その際、対馬の南端に位置する豆酘を重点調査地区として選定した。本年3月には、COE研究叢書として『海のクロスロード 対馬』を刊行することとなったが、これは2002年、2003年の調査成果をまとめたものである。

2月15日更新・
No.49(2007.1)
 2007年1月20日撮影。あきる野市二宮神社本殿の宮殿(くうでん)。あきる野市教育委員会では、昨年12月に二宮神社の本殿(附、棟札2枚、それぞれ万治3年、元禄9年の年号が記されている)と本殿内部にある宮殿を市指定有形文化財とした。この日に一般公開され、市民が多数訪れて、教育委員会スタッフの説明に耳を傾けていた。宮殿は室町期以前の様式を有していて、二宮神社の伝統を良く保っている。この神社は、武蔵国の二宮であり、鎌倉時代には近傍を領有していた小川氏が、薩摩国甑島の地頭となって西遷したことで知られている。なお、あきる野市は海老澤の墳墓の地。


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