2008年度TOP画像

2009年1月15日更新・
No.72(2008.12)
 「そばの里宮古」(福島県喜多方市)。2008年10月29日撮影。10月28日、北方プラザ文化センターにて「全国水源の里シンポジウムin喜多方」が開催される。基調講演は小田切徳美明治大学農学部教授。二日目に現地視察が行われる。最初は人口6人の黒岩集落で、分校跡の校舎が日本画家のアトリエになっている。2番目の訪問地が沼ノ平集落で、「福寿草と棚田による村おこし」。3番目がこの宮古集落。20数軒の民家がそばと蒟蒻と山菜の天ぷらを食べさせる。確かに腰のあるそばで絶妙の味。そば作りで村おこしが成功した例である。後日、ある法事の席で東京に住む叔父にこの話しをしたところ、叔父は何度も行ったことがあり、各民家の屋号も覚えていて驚く。

2008年12月15日更新・
No.71(2008.11)
 10月14日から16日まで長崎市と雲仙市で第14回棚田サミットが開催された。参加者は約1200人。写真は棚田百選に入っている雲仙市の清水棚田。正確には岳屋敷集落の4.1ヘクタールの水田が百選に指定されているが、その上下25ヘクタールほどが棚田となっており、規模が大きい。しかも全体が城郭のような石垣棚田となっており、見事である。地元小学校の棚田教育が進んでいて、小学生が棚田学習で学んだことを発表している。この地の棚田はきっと次世代に引き継がれることであろう。なお、長崎市では外海地区の大中尾の棚田が一般公開された。こちらでは「火祭り」が行われ、夕闇の中、タンボに描かれた「みんなで語ろう。棚田の未来」という火文字が美しく浮かび上がった。

2008年11月15日更新・
No.70(2008.10)
 史跡赤阪城(大阪府千早赤阪村)の東斜面の棚田。2008年7月撮影。2007年11月、下赤阪の棚田を視察して、長水路の発達に驚いたが、『太平記』には史跡赤阪城について、「彼赤坂ノ城ト申ハ、東一方コソ山田ノ畔重々ニ高シテ、少シ難所ノ様ナレ、」とある。現在でも、東斜面は、ご覧のようにコンターのような曲線を持った狭い棚田が幾重にも連なり非常に古様を示し、『太平記』の叙述そのままに存在している。斜面上の水田について「棚田」という表現は南北朝期まで遡れるが、それ以前は「山田」という表現に包括されていた。楠木正成が最初に軍事拠点として鎌倉幕府軍と戦った赤坂城の東側面は累々とした棚田だったのである。城郭発達史の上でも貴重な景観であり、簡単なレポートにまとめてみた。『懸樋抄』参照のこと。

2008年10月15日更新・
No.69(2008.9)
 スバック・ロドトゥンド(Subak Lodtunduh)の調査。2008年8月12日撮影。右からスバック長、ウダヤナ大学農学部のスパータナ講師、スアンバ教授、ウィンディア教授、スバック長の父親。この地はギャニアール県内で、ウブドの南にある。アユン川の水をケドワタンダムで引き、さらに大きくバドゥン県へも分水するが、その分岐点近くにあるのがこのロドトゥンドの村である。この村の北西方向には大きな分水施設があり、33のスバックが集まるプラ・スバック・グデがある。この村の中にスアンバ教授の自宅があり、スバックを学習するトレッキング・コースが企画されている。本年でバリ島の現地授業は4年目を迎え、海老澤がサバティカルのため河合先生にお引き受けいただいたが、多くの方のご協力により休講にせずに済んだのは何よりであった。スバック・ロドトゥンドという生きた教材が見つかり、機会があれば授業に組み込みたいものである。

2008年9月15日更新・
No.68(2008.8)
大分県玖珠町山浦早水の棚田。2008年7月30日撮影。国道210号線の目の前にかかる慈恩の滝の水しぶきを浴びるようにして斜面を登り、東に進むと山浦早水の集落がある。完結性の高い村落で、真ん中に集落がありスタジアムの観客席のように周辺に水田が展開している。万年山(はねやま)から湧き出た山浦川の水を長水路で引き、高い位置で水路をぐるりとほぼ一周させている。見上げると風力発電の風車が回っており、3つの展望所から眺めた村落・水田景観はそれぞれに風情がある。1980年代前半に目と鼻の先の切株山で中世城郭の調査をしたことが懐かしく思い出される。

2008年8月5日更新・
No.67(2008.7)
 高知県檮原町神在居の棚田。2008年6月22日撮影。1995年に第1回棚田サミットが開催されたところ。規模の大きな石垣棚田で、いち早くオーナー制が取り入れられたことで知られる。「龍馬脱藩の道」と密接に関わっており、棚田の上部の峠道には未舗装路があって、「坂本龍馬脱藩の道」という道標が存在する。神在居の集落と棚田と脱藩の道が一体化している点で、他に類を見ない歴史性を有している。尾根道から神在居の棚田を俯瞰することができる。ただし、中央下にトンネルの入り口があり、棚田が二分されていて景観的には「万里の長城」を連想させるものとはなっていない。棚田を万里の長城に比した司馬遼太郎の著名な言葉はどのビューポイントで発せられたのだろうか。石積みが累々と連なる景観に思いを馳せたと思うのだが。

2008年7月15日更新・
No.66(2008.6)
 和歌山県紀ノ川流域の「棚田」発祥の地。2008年5月25日、棚田学会現地見学会にて撮影。かつての高野山領志富田荘、現在のかつらぎ町東渋田。
 「棚田」が史料に見える早い例として、宝月圭吾氏が高野山文書の応永13年(1406)3月晦日の「僧快全学道衆竪義料田注進状」を挙げられ、同じ紀ノ川流域の荒川荘に注目された。中島峰広氏は、『日本の棚田』(古今書院、1999年)において、宝月氏が提示した史料によりこの地が「棚田」という語彙を最初に使い始めた地とした。海老澤はこの「棚田」の現地比定を試み、学芸大学中世史研究会が刊行した『紀伊国荒川荘現地調査報告書V』に依拠して、小字山崎の地にある水田であることを突き止めた(棚田学会第2回シンポジウム、『日本の原風景・棚田』第2号)。場所は平地から丘陵へと移行するところであった。
 棚田研究はさらに進み、高木徳郎氏が「棚田の初見史料について」(『日本の原風景・棚田』7、2006年)を発表し、建武5年(1338)の検地帳に記載があることを示した。それがこの写真の手前に見える耕地である。荒川荘といい、この渋田荘といい、南北朝期から室町期に「棚田」と呼ばれたところは、丘陵の末端にあって土豪の屋敷が近くにあり、平野から仰ぎ見られる地であった。宝月氏は荒川荘の棚田について「狭い谷の最奥部に用水池が築造されており、それより引水する極度に零細な猫額大の田地が、その下のかなり急な傾斜面に並立している状況であろう。」と想定されたが、紀ノ川流域に生まれた「棚田」は明らかにこの想定とは相違するものであったといえよう。
 なお、24日夜から集中豪雨に見舞われ、写真に見えるとおり、紀ノ川が増水し、ため池の堤も決壊が危ぶまれる状況であったが、幸い、大事には至らなかった。

2008年6月15日更新・
No.65(2008.5)
中国陝西省武功県にて、左から武功県水利局の易亜利さん、史若虚氏、海老澤、西安国際旅游公司専務の姚雪峰氏。2008年3月12日撮影。漢代に造成された成国渠の調査のため、武功県水利局を訪ねたところ、主任の易亜利さんから1993年に刊行された『武功県水利史』(武功県水利局編)を提供されるとともに、様々な便宜をはかっていただくことができた。さらに、この書の編纂を中心的に担った史若虚氏の家に案内され、聞き取り調査をすることができ、この地における水利を実態的に理解することができた。中国では、長江の水を黄河に引水する巨大プロジェクトから村の灌漑まで、「水利」が行政の中で大きな位置を占めている。それ故、水利事業に多くの予算が投入され、新たな政策が生まれ、同時に水利史にも関心が深い。

2008年5月15日更新・
No.64(2008.4)
 中国陝西省眉県の魏家堡にある渭河(日本では「渭水」として知られる)からの取水施設。2008年3月12日撮影。西安(長安城)から西に向かって100qほど行ったところで、この地からさらに15q西に進むと五丈原となり、かつて諸葛孔明が陣を敷いた地。漢の武帝が渭水の上流から引いた成国渠は関中平原を広く灌漑した水利施設として知られているが、長い年月のあいだに河道の変遷とその後に築造された水路網によって古代の姿を復原することは困難となっている。もともと成国渠の取水口は眉県にあったと言われ、魏家保から引水されている渭恵渠の水路が地勢的に見て成国渠を踏襲するものであろうと考えられる。以前紹介した河から取水する鄭国渠の場合には、秦代の施設が河床の低下によって消滅し、その後、元や明の王朝が上流に取水口を構築したことが碑文等によって確認され、現在「文物管理所」の展示によってその歴史が辿れる。鄭国渠と成国渠では現代中国の扱いに相違があるが、それは何に起因するのであろうか。

2008年4月15日更新・
No.63(2008.3)
 弁天山の棚田。2005年8月20日撮影。あきる野市大字網代字引谷に所在。現在の可耕地は8テラスで、6畝ほどの面積。2005年の棚田分布調査によって東京都は棚田空白区とされているが、現在でも息づいている棚田が存在しないわけではない。自然体験を重視する「ころりん村幼児園」(あきる野市菅生)の保護者の有志の人たちが、子供たちに田植えの体験をさせ、もち米を栽培し、収穫後は餅つき大会をして、お米のできるプロセスを子供たちに理解させようと耕作している。この地は、戦国大名後北条氏の領国で著名な武蔵国網代村で、寛文検地帳に引谷の水田が記されている。海老澤「東京都弁天山の棚田−あきる野市大字網代字引谷の事例」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第53輯、2008年2月)参照のこと。

2008年3月15日更新・
No.62(2008.2)
 永平寺。2007年11月24日撮影。法堂から仏殿を眺める。70名ほどの修行僧全員が交替でガイドを兼ね、大伽藍を案内し、修行中の秘話も交えながら大衆に語りかける。修行道場と観光寺院の両面が一体化して感動的な宗教空間となっている。以前、中国四川省の伏虎寺を紹介した際、尼寺の活況に感動したことを述べたが(「過去のTOP画像」41)、飛び抜けて聖と俗のふれあいがあるこの永平寺は世界的に見ても貴重な宗教遺産であることは間違いない。世俗と交わらず、ひたすら禅の修行に励む開祖道元のイメージが強いだけになおさらである。「修行僧を写真撮影してはならない」という現代における戒律が、聖と俗の困難な調和を可能にしているといえよう。

2008年2月15日更新・
No.61(2008.1)
 丸岡城(福井県坂井市)の天守閣。2007年11月24日撮影。近世の天守閣が現存する城郭は全国で12箇所にすぎないが、丸岡城はその一つで、最も古様を示すといわれている。1948年の福井大地震で倒壊したが、80パーセント近く古材を使用して復興されたもの。重要文化財。二重三層で、上層が望楼となっており、通し柱がない。屋根は石瓦(笏谷石)で葺かれている。この地に最初に城郭を築いたのは柴田勝家の甥、勝豊で、一向一揆平定後の天正4年(1576)のことであった。福井平野東北部に位置する平山城で、標高17メートルの小丘陵に過ぎないが、眺望は極めて良い。


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