2009年度TOP画像
2010年1月15日更新・
NO.84(2009.12)
樫原の棚田(徳島県上勝町)。2008年6月24日撮影。12月11日の文化審議会で、重要文化的景観に選定し、登録するよう答申があった。昨年、この地を訪れる機会があり、谷崎勝祥さんのご案内で現地を見学することができた。文化10年(1813)作成の樫原村分間図が現存するが、これは徳島藩が、縮尺2寸1丁(約1800分の1)で集落・耕地を実測したものである。樫原は、現在でもその景観を読み取ることができる貴重な地区。標高700〜800mの山に囲まれ、農地の傾斜は4分の1で、平均水田面積は約 180u。まさに山間に切り開かれた棚田である。
2009年12月15日更新・
NO.83(2009.11)
大分県杵築市山香町の芋恵良(いもえら)集落。2009年11月6日撮影。大分県立歴史博物館は国東半島荘園村落遺跡詳細分布調査として本年度から豊後国速見郡山香郷の調査を開始した。この詳細分布調査は、国東郡の田染荘を皮切りに、都甲荘、香々地荘、安岐郷、国東郷の調査を行ってきた。調査事業としては初めて速見郡には入ったが、豊後国田染荘と境を接しており、その境界領域には、尾根上の集落六太郎がある。六太郎は建武期には、田染荘内の六郷山寺院である馬城山の南の四至であったが、室町期以降は山香郷の集落となった。 山香郷は中心を流れる八坂川の竜頭(りゅうづ)井堰が古代的な灌漑状況を示すとともに、周辺の山間には中世以来の棚田集落が点在し、国東地域の荘園のなかでも際だった特色を有している。写真の芋恵良は、標高約650メートルの雲ヶ岳(宇佐八幡宮の奥宮である御許山と至近距離)の中腹にある棚田と一体となった集落。中世に4反の水田が存在したが(永正4年志出泰久田畠坪付)、これは集落の前面に展開したものであろう。永正9年の山香郷一揆拘分土貢納所銭注文案では四反のうち一反が「~号免」となっている。集落から一段高くなったところに明徳3年勧請の由緒を有する白山神社があり、由布岳まで見渡せる眺望がすばらしい。
2009年11月15日更新・
NO.82(2009.10)
輪島市白米の千枚田。国の名勝指定を受けている。2009年8月6日撮影。日本海に面した急斜面に1.8ヘクタールの水田が広がる。17世紀から19世紀半ばにかけて造成されたという。水源は寛永15年頃、能登小代官下村兵四郎が開いた谷山用水。毎年、高い方の土手を削って水田に客土しているという。バリ島テガラランの棚田と同じ手法が用いられている。現在の日本では数少ない事例であろう。のり面が非常に原始的で、大阪府千早赤阪村の史跡赤阪城東斜面の棚田にも類似する。
2009年10月15日更新・
NO.81(2009.9)
バリ島カランガスム県バサンアラス村。2009年9月5日撮影。テーマカレッジ「日本とバリ島」の現地授業も5年目となった。この日は、「京都大学 こころの未来研究センター」所長の吉川左紀子先生の一行とご一緒することとなった。例年通り、スバック・バサンアラスの水系をたどり、さらにプラ・プセを訪ねる。若者たちの祭りに遭遇し、少年組のガムランの演奏と青年組のバラガンジルを堪能することができた。彼らには伝統文化継承の気負いなどは全くなく、自然に学んで楽しく演奏していた。壮年・青年・少年のバランスの取れた年齢階梯が見られ、日本では失われてしまったムラの原風景があった。
2009年9月15日更新・
NO.80(2009.8)
五箇山相倉の合掌造り集落(富山県南砺市)。2009年8月6日撮影。白川郷(岐阜県白川村)と同様に世界遺産に登録され、整備が進められているが、民俗的な雰囲気を濃厚に保っていて、落ち着いた佇まいを示している。案内板には天文21年の古文書により来歴がわかるとある。合掌造りの民家は20戸ほどで、かつては煙硝の製造、和紙の製造、養蚕製糸を行っていたという。集落の前面には石積みの棚田が折り重なるように段々を形成している。白川郷でも集落の周辺には水田が広がり、茅葺きの大屋根と見事に調和しているのが印象に残った。合掌造りの民宿は大賑わいだが、やはりここに日本的な安らぎがあるのだろう。
2009年8月15日更新・
NO.79(2009.7)
岡山県新見市の備中国新見荘の故地。2009年7月5日撮影。本年度は大学院ゼミにて東寺領荘園として著名な備中国新見荘の史料を講読している。新見荘を現地で詳しく研究している竹本豊重氏のご案内を得て、広い荘域の重要なポイントを隈無く踏査することができた。宝台寺五輪塔や石堂薬師三尊像など花崗岩でできた美しい石造文化財が印象に残った。荘園に住んだ人びとの美意識が知られる。中世新見荘の荘民は頻繁に都を訪れ、花崗岩でできた畿内の宝塔や石仏に魅せられたに違いない。
2009年7月15日更新・
NO.78(2009.6)
2003年6月8日撮影。豊後高田市田染小崎(たしぶおさき)。豊後高田市の人びとの努力によって、文化的景観保存地区としての取り組みが前進しつつある。平和な田園風景だが、「赤迫」と呼ばれる鎌倉時代以来の水田(写真の中央)を6メートル道路が横断する計画が立てられたこともあった。小さな立て札が見えるが、これは田染荘の荘園領主すなわち景観保存の趣旨に賛同したオーナーの名前が記されている。田園空間博物館構想により整備され、4件の農家民泊があって、炭焼体験などもできる。最近、初夏における蛍の群舞が風物詩となっている。
2009年6月15日更新・
NO.77(2009.5)
千葉県印西市結縁寺。2009年1月19日撮影。朝日新聞選定「日本の里100選」の24番。朝日新聞1月6日朝刊記事では「千葉ニュータウンのすぐ近くにある76ヘクタールの谷津地域。田や畔、斜面林のほかため池などの水辺環境も健在だ。鎮守の森も残る。」とある。新聞に掲載された写真は山林を背にした水田で、棚田地域の可能性を想起させるものとなっており、棚田学会としては従来ノーマークの場所であった。結縁寺境内近くの石造物群のところで、この地で里山の研究をされているケビン・ショート氏に出会う。ケビン氏はこの地の水田が谷津田であって棚田ではないことを強調された。踏査してみると、結縁寺境内域の豊富な湧水により、ため池があり、広大な水田が開かれているが、この地の水田は限りなく海抜0メートルに近く、平坦である。斜面は林となっており、その上面は畑地が展開している。朝日新聞掲載写真の地と思われる水田も若干の斜面ではあるが、斜度20分の1はない。
2009年5月15日更新・
NO.76(2009.4)
東京都町田市にある図師・小野路歴史環境保全地域の五反田谷戸。2009年4月12日撮影。棚田学会は、本年度設立10周年を迎え、7月18日(土)に大会シンポジウム「里山と棚田を守る−歴史・論理・実践−」を開催する。理事会によるシンポジウム準備の勉強会として図師・小野路歴史環境保全地域を訪ねた。町田歴環管理組合の理事長田極公市氏から懇切な説明を受け、現地を視察する。里山保全のポイントの一つ、棚田の両端の樹木伐採について学ぶ。「アナガリ」は谷戸の南側の水田に面した斜面を6メートル程度伐採するものである。こうして「南のコサ三間」が草地となる。
2009年4月15日更新・
NO.75(2009.3)
松本城天守閣。2009年3月11日撮影。1590年石川数正がこの地に入部し、大規模に改修。彼は徳川家康の重臣でありながら小牧長久手の戦いの後に出奔し、豊臣方についたことで知られる。文禄慶長の役に出陣し、名護屋で病没してしまうが、全体構想は彼のプランであったと考えてよい。特筆すべきは、惣構えの外側に四つの巨大な丸馬出が存在したことである。現在でも惣堀が一部残存していて北の馬出の位置がわかるのは誠に貴重である。築城の名手加藤清正が見学に訪れたという言い伝えも頷けるものがある。日頃、二人は城郭についてどんな会話を交わしていたのだろうか。
2009年3月15日更新・
NO.74(2009.2)
設楽原の復元馬防柵。2008年11月30日撮影。天正3年の「長篠合戦」として知られる織田・徳川連合軍と武田軍が戦った古戦場。成瀬家本「長篠合戦図屏風」によれば、徳川軍の主力部隊は馬防柵の前に出て、連吾川との間にあって鉄砲を撃ちはなっている。家康譜代の家臣団の活躍と鉄砲の集中使用を強く意識した図柄になっており、 成瀬家の制作意図が明確にされている。現地は複雑な地形をしているが、南北に流れる連吾川付近は若干の見通しがきく地勢となっていて、鉄砲の集中使用は彼我ともに認識されるところであった。
2009年2月15日更新・
NO.73(2009.1)
坂折棚田石積み塾。2008年11月29日撮影。岐阜県恵那市中野方の坂折棚田。棚田百選のなかでも石積みの棚田が残るところとして著名。展望所の近くに「さかおり茶番処」という施設があって、来訪者にお茶を振る舞ってくれる。その横で石積み塾が開催されていた。石積みの経験が全くない人に石垣の作り方を教えてくれるというものである。まずは平らなところでトレーニングをする。次に、棚田の現地に行き、石積みの壊れているところの修復を行う。回想してみると、東京都の多摩川上流でも、1950年代までは石垣石工がいて何人かの人夫を使いながら石積みを行っていた。子供の目には、その作業を見るのが面白くて何時までも立っていた覚えがある。今回目の前で行われているのは技術の伝承のための作業である。もう半世紀も経ってしまったかとの感慨あり。
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