2018年度TOP画像
NO.192(2018.12.15)
高瀬川一之舟入。木屋町通りの脇、2018年12月8日撮影。慶長13年(1614)頃に角倉了以・素庵父子が開いた高瀬川にある舟入で、鴨川沿いに掘削された運河である高瀬川の物資集積地。この舟入はかつて二条から四条の間に九カ所存在したが、現在保存されているのはこの地のみである。高瀬川は東九条まで降りたあと鴨川を横断し、東に延びて伏見まで通じていた。
NO.191(2018.11.15)
フロノモト井堰。2018年3月9日撮影。重要文化的景観「田染荘小崎の農村景観」の構成要素。西叡山の尾根が伸びた先の小丘陵地に小崎川がぶつかり南→東→北と大きく流れを変える。西叡山の尾骨のように岩盤が露出し、小さな滝となっている。ここから引水され、小崎の集落の東側に水路が延びて水田を灌漑している。近世からは「小崎」という村落地名になったが、中世には「尾崎」と呼ばれた。鎌倉時代には開発され、この谷間で最も早く開かれた場所であった。山里の小川に見られる「自然頭首工B型」の一事例である。
NO.190(2018.10.15)
重要文化的景観「田染荘小崎の農村景観」の説明板。2018年10月14日撮影。西叡山から華ヶ岳に向かう尾根筋の鞍部に天保7年(1836)に築造された用水池である。説明板の左側に見える元禄期の様相を伝える村絵図には当然のことながらこの池は描かれていない(位置は赤いドットで示されている)。小崎村の里近くにある二つの池が描かれているに過ぎない。空木池ができることによって鎌倉時代から始まったこの地域の水田開発は、完成を迎えたことになる。当時この地の行政を担当していた島原藩から奉行高橋正路が派遣され、築造に成功した。これほどの工事になると、庄屋以下の村役人だけでは手に負えないことがわかる。
右肩にある重要文化的景観のロゴマークにご注目。文化庁が定めたそれぞれの地区のイメージが示された新しいデザインである。
NO.189(2018.9.15)
2018年9月5日(水)早稲田大学戸山キャンパス33号館3階の第1会議室にて、シンポジウム「荘園調査とWeb公開―備中国新見荘から美濃国大井荘へ―」が行われた。第1部「荘園現地調査と多層荘園記録システム」第2部「画像・地形図・地理情報ソフトの応用的活用」として、計7本の報告があった。討論においては関ヶ原の戦いの前哨戦である杭瀬川の戦いと笠縫堤との関係や、菅野川の取水口と周辺の湿地原や湧水などを巡って有益な意見が交換された。これは、2015年から続く科学研究費基盤研究(A) 「既存荘園村落情報のデジタル・アーカイブ化と現在のIT環境下における研究方法の確立」の研究成果発表会であり、本年度で4回目。事前の打合せ会において、この科研成果に関する最終報告会が提起され、2019年3月16日(土)にシンポジウム「荘園研究の現在と未来」が開催されることとなった。
NO.188(2018.8.15)
7月21日、22日に大隈講堂で行われた、朝河貫一没後70年記念シンポジウム「朝河貫一―人文学の形成とその遺産―」。イェール大学教授であった朝河貫一は日欧中世の封建制を比較した研究者として知られる。すでに2015年12月5日には、私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「近代日本の人文学と東アジア文化圏―東アジアにおける人文学の危機と再生」の主催によるシンポジウム「朝河貫一と日本中世史研究の現在」を小野講堂にて開催した。今回は没後70年の節目にあたることから、規模を拡大し、2日間にわたって大隈講堂でおこなった。日本の人文学形成に大きな足跡を残した朝河の全体像に一步迫る多彩な視点を示し得た。
NO.187(2018.7.15)
大垣城石垣の化石。2018年3月27日撮影。指し示した爪の周辺に見えているのはフズリナという石灰質の殻をもった有孔虫の一種、幾分大きく見え、放射状に広がっているのは珊瑚の断面。大垣市街地からほど近い金生山から杭瀬川の舟運によって運ばれたものであるとのこと。金生山化石館には貴重な化石が展示されており、この地域の地相を明らかにしてくれる。また、金生山からの眺望は、大井荘域まで遮るものがなく、素晴らしい。
NO.186(2018.6.15)
吉野蔵王堂。2018年3月17日撮影。金峯山寺の本堂。桃山文化を今に伝える壮大にして華麗な建造物である。修験道のメッカであり、巨大な蔵王権現を安置する。役小角の開基と伝えられるが、山岳修験は国東六郷山の仁聞菩薩のようにその地の開基を伝える伝承が残る一方で、六郷山のなかにも役小角の伝承が入り込んでいる。この二重構造が興味深い。
NO.185(2018.5.15)
宇智川の磨崖碑(奈良県五条市)。吉野川支流である宇智川の深く浸食された河床近くにある。2018年3月15日撮影。大般若経の経文があり、仏像が線刻で彫られている。奈良時代(宝亀年間)の貴重な遺跡だが、現在では磨滅していて、説明板なしには理解不能。藤原武智麿の墓地がある栄山寺のかつての境内地の西辺にあたり、奈良時代には平城京と南海道を結ぶ要地であったことがわかる。
NO.184(2018.4.15)
竹内理三先生の生家の地。愛知県知多市岡田町。2018年4月14日撮影。建物は伊勢湾台風のあとに建て替えられている。敷地は先生の兄玉一氏のご子孫がそのまま継承され、現在に至っており、環境的には大きな変化はないように見受けられる。明治から大正にかけてこの地は綿織物の生産・流通によって栄えた。丘陵の緩斜面に敷地をゆったりと取った屋敷が並び、その頂上部には、祭に山車を三台出すという岡田神明社が鎮座する。近くには料亭が伝統的建造物として保存されており、農村というよりは町場ともいえる風景に驚く。竹内先生のお話からはこのような実感が湧いてこなかった。現在では街並み保存が進められている。
NO.183(2018.3.15)
南阿蘇鉄道高森駅にて、2018年2月24日撮影。南阿蘇鉄道は2016年4月16日に発生した熊本地震の本震により甚大な被害を受けた。もともとJR豊肥線のスウィッチバック駅立野から阿蘇の外輪山に入り、南阿蘇の高森町までを走る第三セクターの鉄道であったが、熊本地震により中松―高森間のみを走る。鉄道ファンの聖地ともいえる立野駅であったが、外輪山の切れ目の断層が禍いし、大きな被害を受けてしまった。この災害によって阿蘇の重要文化的景観の選定作業も遅れたが、2017年秋には完了した。南阿蘇鉄道の車両に描かれたキャラクターもこれを祝福しているように見える。まさに「がんばれクマモト!」である。
NO.182(2018.2.15)
原尻の滝から下流を見渡す。滝より下流にはあまり礫を含まない溶結凝灰岩が河床から大きく盛り上がって見える。垂直の壁には多くの礫が含まれているが、それらの岩の間を縫って純粋な溶岩が流れ出したということなのだろうか。論文「和名抄郷の持続性と自然頭首工」でAタイプの類型としたのだが、和名抄郷の遺存地ではこの緒方郷だけかもしれない。日本は火山が多いので、谷間に溶岩流が流れ込むことはあるのだが、20メートルの垂直段差を造るところはまれである。これから和名抄郷の谷間にある溶岩流あとを探す旅に出よう。
NO.181(2018.1.15)
世界遺産バリ島ジャテルイの祭のパレード。2013年8月5日撮影。インドネシア・バリ州の水田灌漑組織スバックを中心として、文化的景観が世界遺産となった。以前からこのタバナン県ジャテルイはライステラスの名所として知られていたが、トレッキングロードなどが整備され、世界中の人々が訪れるようになった。本年、早稲田大学のプロジェクト研究所である水稲文化研究所で調査したバリ島に関する成果を『バリ島の文化的戦略―世界遺産への道―』として刊行することになった。
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