2009年度海老澤ゼミ 備中国新見荘関係史料講読その1

 2009年度海老澤ゼミでは、山間部の荘園の景観復原のサンプルとして史料の豊富な備中国新見荘をとりあげ、その関係史料のうち、鎌倉期の文書を講読した。 講読史料については、『新見市史史料編』(新見市史編纂委員会、1990)所収の浅原公章氏による「備中国新見庄関係史料編年総目録」を参考に、 『岡山県史』・『備中国新見庄史料』の翻刻を使用したゼミ独自の史料集『備中国新見荘関連史料集 ―鎌倉時代編―』を作成した。 このうち、比較的短い文書類を編年順に先に講読し、その後長大な土地台帳の講読にとりかかった。

【各回の担当者と内容】

◇4月6日 植田真平
 『ガイダンス』
新見荘の概要と先行研究、本年度ゼミで論点になるであろうトピックを紹介し、ゼミの進め方を確認した。

◇4月13日 飯分徹
 卒論報告『南北朝・室町期における安芸毛利氏の領主結合』

◇4月20日 久下沼譲
 卒論報告『在地掌握体制から見た後北条氏の領国支配』

◇4月27日 白川宗源
 研究報告『「淋汗茶湯」再考』

◇5月11日〜6月8日 大島創・白川宗源・似鳥雄一・石原達也
 『先行研究の内容紹介・整理』
中世前期新見荘に関する先行研究を整理し、その問題点を抽出した。 問題点として特に、史料上の用語の解釈、地名等の比定の史料的根拠、地頭の活動実態、荘内の生産活動の実態等の解明があげられた。 これにより、本年度ゼミで取り組むべき課題について、ゼミでの共通認識を得られた。

◇6月15日 石田出
 『鎌倉初期の院・太政官・六波羅探題・小槻氏発給文書の講読』
地頭や下司の動向など荘内における承久の乱のインパクトや、鎌倉初期の荘における領家小槻氏のはたらきについて議論がなされた。 また、人名比定や史料批判等が課題とされた。

◇6月22日 飯分徹
 『鎌倉期地頭新見氏関連文書の講読』
鎌倉期の地頭新見氏について、その出自や活動、補任状況、幕府政治氏との関連が議論された。 長く不明とされている鎌倉期の新見氏の実態解明は、中世前期の新見荘の解明において最も重要な課題のひとつである。

◇7月4〜6日
 『新見現地調査(2泊3日)』
新見荘研究者の竹本豊重氏にご案内いただき、荘域内の各史跡、名や村落の故地をめぐった。 現景観を見ておくことは、本年度後半で土地台帳を講読する上で非常に有意義であった。

◇7月13日 久下沼譲
 『小槻氏仏事関連文書・最勝光院領荘園目録・田所職譲状・小槻氏所領相論関係文書の講読』
初期の小槻氏所領相論について、新たな人名比定の上で小槻氏以外の人物の関与が指摘され、先行研究とは異なる相論の評価の可能性が指摘された。 また、田所職等譲状案を含む案文群の作成の契機やその史料批判についても議論がなされた。

◇9月28日 似鳥雄一
 『小槻氏所領相論関係文書の講読』
小槻信親・匡遠所領相論について、匡遠による信親からの奪取との評価がなされた。 また、講読対象史料から漏れていたものとして、最勝光院寄進に関する光厳上皇院宣(年未詳、東寺文書)・同案(建武3年、東寺百合文書)が検出された。

◇10月5日 久下沼譲
 『東寺への寄進関連文書の講読』
新見荘を含む最勝光院領が東寺へ寄進される経緯が詳細に示され、 その間に新見荘や周防国美和荘の権益の一部が他寺院にも保有される錯綜した状況にあったことが指摘された。 また、東寺が寄進綸旨の獲得かあるいはその後の相論において、公家や他寺院などにさまざまな働きかけをしていた実態も明らかにされた。

◇10月19日 大島創
 『文永8年領家方里村分正検田取帳案の講読』
「一反七ゝ」・「九ゝ」などの表現の解釈、押紙や付箋の貼られた時期やその意図などが議論された。 また、当史料が建暦年間の取帳を基とすることについても指摘がなされ、「定〜」の表現とそれとの関係が議論された。

◇11月2日 石田出
 『文永8年領家方奥村分正検田取帳案の講読』
図表の多用により、取帳全体の解釈について先行研究に対する批判を含む活発な議論がなされた。 また、大量に貼られた押紙に地理的偏差があることから、検注後の東西両方の領域確定やその背景にある地頭の活動などが議論された。

◇11月9日
 『新見現地調査 (日帰り)』
取帳群講読に必要な地図資料等の探索および現地調査を目的に、海老澤・白川・植田の3名が新見へ。 結果、新見市役所所有の番地区画地図から、中世の地名比定がある程度可能であることが判明した。 併せて、1990年代前半に新見が新見荘やたまがきで地域振興を行ったときの様子を、当時の関係者の方々からうかがった。 また現地調査の成果として、史料上「イヲキリ」等とあらわれる魚切里の名が、現在も高梁川東岸の一区域を指す古名として残っていること、 杠城西麓の矢谷がヤト開発の一典型として棚田景観を残していること(写真参照)がうかがえた。

 

◇11月16日 高橋傑
 『文永8年領家方奥村分作畠正検取帳案の講読』
文永年間になされたとされる新見荘の下地中分に関する先行研究が精緻に整理され、下地中分における文永8年取帳群の位置付け、 建暦取帳との関係、その後の東寺による荘支配における文永8年取帳群の価値など、文永8年取帳群をめぐる包括的な議論がなされた。 さらに、取帳群の作成・保管における在地の役割についても議論された。また、里畠と山畠の検注方法の違いについても指摘がなされた。

◇11月30日 石原達也
 『文永8年領家方奥村分正検畠取帳案の講読』
検注順路・日程や各里の合計畠面積が整理され、地名比定や作表など、先行研究に対する見直しの必要性が示された。 また、史料中の「リ(里畠)〜」の記述が示す検注方法や、「家前」・「道ヨリ上」・「沢ノ上」等の注記が示す耕地の位置関係や具体的景観などについて議論された。

◇12月7日 白川宗源
 『文永8年領家方里村分正検畠取帳案の講読』
検注順路・日程の詳細な分析により、山畠と田の検注が別行動で行われた可能性が指摘された。 また、付箋からうかがえる検注前後の地頭の活動や、相論の記述からうかがえる作人の動向について議論がなされた。

◇12月14日 阿久津洋子
 『惣検作田目録の講読』
吉野が地頭の収奪の的となった理由に、鉄資源のみでなく備中国外へもつながる交通の要衝であったことが指摘された。 その吉野に集中する油地新田について、先行研究の解釈に対する批判を含め、地理的・地形的偏差や建暦古帳との関係などからその解釈が議論された。

◇12月21日 飯分徹
 『五分一田畠漆等分帳案・西方作畠目録案・西方作田目録案の講読』
これまでのゼミの成果により分帳案の人名比定が可能となり、下地中分やその周辺の状況が具体的にわかるようになった。 今後これをもとに、下地中分の実態について、史料的な裏付けなどからより迫っていく必要があろう。

◇1月18日 大澤泉
 『西方麦畠検注取帳の講読』
新見荘の畠地・「油地新田」の実態について、先行研究を批判し、課税対象の耕地面積の推移から、夏麦と冬胡麻の二毛作が行われていたことが指摘された。 そのなかで、胡麻と荏胡麻の区別や、「油地新田」の語の発生などが議論された。



【成果と課題】

本年度ゼミで取り組んだ、小槻氏相論の実態、地頭新見氏の活動、下地中分について、文永八年取帳群の講読等の各論点の成果と、そこで残された課題が改めて整理され、次年度取り組むべき課題が示された。

1.小槻氏相論の実態
第T期相論:淳方系内部、信光×信尊
第U期相論:有家系匡遠×淳方系信尊
の2期に分類される。
淳方系への坊門氏関与の可能性が指摘された。
→小槻氏内部の相論とのみ捉えるべきでない。
2.地頭新見氏の活動
新見氏の活動実態の把握。
→南北朝・室町期の新見氏の活動とどう繋げて考えるか。
3.下地中分について
時期の確定に近付いたか。
ただし、いっときに下地中分がなされたのではなく、段階的に地頭ヘの割譲、領域確定が進められた可能性も考えられる。
→地頭の活動(取帳群の押紙に見える押領等)と関連させて、時期・領域についてより動態的に考える必要性。
4.文永八年取帳群の講読
耕地の規模や検注方法の把握。
取帳群の性格や、作成の背景・契機など。
→さらなる精読が必要。
5.「油地新田」の解釈
胡麻生産か、鉄資源か。
→新見荘の生産活動(稲・麦・胡麻・荏胡麻・漆等)や荘民の生活様相、貢納システム等と併せて考えるべきか。
6.新見荘の外部環境
寄進過程や本所・領家との関係。関係文書伝来過程等も。
→荘園制議論のなかで考える。

 以上、本年度海老澤ゼミでは、関連史料の講読をとおして、中世前期の備中国新見荘に対する理解を深めることができた。そして、新見荘を素材に、領有権をめぐる荘園領主間の相論、地頭の活動活発化による下地中分、検注による耕地の把握等の議論を行うことができた。これらは荘園史研究のメイントピックとなるべき議論であるが、新見荘の事例が荘園史研究や荘園制の議論の中に如何に位置付けられるか、新見荘の事例から今日の荘園史研究や荘園制の議論に対して如何なる提言ができるかについては、今後の課題と言わねばならない。

(文責:2009年度ゼミ幹事 植田真平)

2009年7月5日 岡山県新見市の備中国新見荘の故地にて


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